a.み言葉の宣教の不足
何故ドミニコ会が生れたか一口に申しますとそれは、当時宣教者が定らなかったためです。ご存じのように司教に任せられている最も重要な任務は自分の教区においてみ言葉を宣べ伝えることです。ところで聖ドミニコ時代の司教の状態はどんなであったのか考えてみますとこれは、要するに当時の司教が、み言葉の宣教を小教区の主任司祭にはもちろんですが、自分の教区にあった修道会の院長達に委ねた次第でした。それは、原則として司教は毎日曜日み言葉を宣べ伝える筈でしたが、しかし実際には大きい教区の各教会を訪ねることは物理的にも不可能でした。その上、各教会の主任司祭も足らないし、又残念ながら、当時の司教や司祭は聖書やその他の研究や黙想をする時間がない程、多忙であり、ごく簡単な言葉を以て、み言葉を宣べ伝えました。主の祈り、アヴェマリア、信仰宣言を少しづつ説明する程度でそれ以外、福音の内容のこまかい解釈はしなかったようです。
とにかく、このような状態であり、最も重要とされているみ言葉の宣教は少なかったわけです。聖ベルナルドによりますと、「犬は多いのですが、吠える犬が少ないのです」と言っておりますが、その当時犬は意味深いシンボルとされていました。つまり犬は、走るのが速く上手なことから、み言葉を蒔くために走っている熱心な宣教師にたとえられてありました。聖ドミニコのことを思い出してみますと、彼の母は我が子の誕生の前に、火のついた松明(たいまつ)を口に加えた黒と白の斑の犬が体内におり、体から離れると全世界に火をともした夢を見たと伝記に書かれてあります。確かに当時「犬は多いのですが、しかし吠えない」のです。
司教と司祭が多忙か、怠惰かわかりませんがとにかくみ言葉を宣べ伝えないということです。或いは、宣べ伝えるのですが、み言葉への知識が浅いので心の糧とならないのです。一部の司教や司祭は、み言葉を熱心に宣べ伝えたいと努めていても、勉強する時間がないまゝに、その内容の深さを十分理解できないため、彼らは口を開くことができませんでした。一方、異端者は多く、彼らは聖職者よりもみ言葉の内容を深く知っていたため司教や司祭達は、どうしても彼らの前で負けてしまったのです。負けるというよりも沈黙を選ばざるを得ない状態になってしまったのです。
又、貴族達は都市に住みつくようになり、その時司祭も一緒に連れて行ったので、そのため田舎の司祭は減少し、司祭のいない教会が多くなってしまいました。従って信者達は、み言葉を聞く機会が自然と少なくなり、信仰は薄らぎやがては信仰を失ってしまう危険が生じてきました。或いはそこまで行かないでも、異端者が来れば彼らに従うようになってしまいました。
以上が当時の状態であり、その頃大きな影響を与えていたのは、アルビ派の異端者でした。ドミニコは一生涯、彼らと戦い、そのために修道会を創立した一つの理由だと言ってもよいほどでしょう。ではアルビ派とは一体どんなものであったのでしょう。
b.アルビ派の異端
ドミニコ会の霊性を理解するためには、創立者が体験したことも知るべきだと思います。1125年頃、フランスの南部、カルカソン、ナルボン、ベジ工、モンペリエなどの都市にアルビ派の異端者があらわれはじめました。彼らは、マニ教(3世紀頃)の神について二つのごく異った存在を認めていました。それは、「善の神」と「悪の神」がいて、悪の神が、地球をつくりこの世をつくりました。人間の肉体をはじめ物質的なものはすべて悪の神に属しており、地獄、煉獄を否定し、善の神は人間の霊魂と天国をつくられたということでした。肉体は悪の神から出たため悪いものであり、霊的な魂にとって邪魔なものなので自殺しても良いということになります。又、彼らは新約聖書は受け入れましたが、旧約聖書を否定する態度をとっていました。
このように異端者のすすめた教えが何故これ程勢力を持ってきたのかと言いますと、先程言いましたように当時、司教や司祭がみ言葉を宣べ伝えることが出来ず、反面、異端者の中にカトリック教会に似たシステムが出来、司教、司祭、助祭もいたのでカトリックの制度を生かした異端者として信者を誤魔化しながら自分達の教えを力強く宣べ伝えました。
彼らが最も強調していることは清貧です。お金や物をもつことは罪であり、悪の神からの誘惑であると教えたのです。彼らは良く清貧の精神を守りました。カトリックの司教達は、み言葉の解釈を十分に理解していなかったため、彼ら側の司教とよく争いが起き、前に言ったようにカトリックの司教が彼らに負けたこともけっこうありました。こればかりではなく、異端者の教えることが果たして正しいのか否か、カトリックの司教も迷っていたようですし、彼らに同意し次第に協力するということもあり、又、その代償として、お金などの援助を受けたりなど、すごく混乱した時代でした。
この状態に対して教皇を初め全カトリック教会が動き始めました。1147年頃、時の教皇は、エオジェニオ三世は、クルニー会の一員の名高いベルナルドに手紙を出し数多くの信者と共に異教と戦うように願いました。しかし歴史を見てみますと、動き始めた人はごく少数であったためなかなか成功するのにほど遠く、次の教皇アレキサンデル三世は、次の手段として1163年、フランスの司教が一致団結して戦うようにと手紙と共に枢機卿ペトロ・ド・サンクリゾゴスを送りました。ペトロはフランスの南にあるツルーズの町に、司教達を集め、教皇の希望を伝えました。(これは1163年頃のことですから、その後7年すると、ドミニコの誕生をみることになります)枢機卿ペトロの下に司教達は励みましたが、異端者は多く、成功どころではなくその結果は、20年もの長い戦いになってしまいました。1195年頃、ツルーズのレイモンド伯爵は、異端者に協力的態度をとるようになり、これを知った時の教皇イノセント三世は、伯爵の許しに大司教カステルノのペトロを送り、回心を願ったのですが、伯爵はこれをきくどころか、ペトロを殺してしまいました。これは1208年頃のことでした。
このような事態に対し、教皇はついにフランスにおける十字軍の出動を求めました。これによってフランスでは異教と戦い破壊するための残酷な戦争が起こりました。1209年、ツルーズのレイモンド伯爵はやっと教皇に従うようになりましたが、この十字軍の戦争は20年位続き、非常にヨーロッパの中は混乱していました。ドミニコの時代はこのような時代でした。
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