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ドミニコ会と他の会の比較

ドミニコ会の霊性とは一体何なのでしょうか。そのために先ず、どの方が最もすぐれているかは別として他の会の霊性の特徴と比べることにより、次第にドミニコ会の霊性の本質がかわってくるのではないでしょうか。ベネディクト会は典礼聖務の祝祭に奉献している修道会であり、カルメル会やカルトジオ会は、隠修士的な生活に孤独や厳格さをしのばせており、教会において祈りの精神を高度に維持してゆく責任をもっています。フランシスコ会は、霊父の清貧のうちにセラフイム的な愛を求めています。アシジの貧しい修道者のフランシスコの愛は、いつの時代にも人々が賛嘆してやまないものです。イグナチオは、神の光栄に対する熱誠に、賢慮や練達を結合するべきを知る一つの軍団のような修道院を設立しました。意思の強固、それがイエズス会の特徴になっています。(カトリック生活1974年8月号参照)

さて、右に記した様々の修道会が、これらのすばらしい固有の特徴を神から恵まれたのなら、それならばドミニコ会の特徴、つまりドミニコ会の霊聖とは何なのでしょうか。何となく他の修道会にすべてが与えられて、ドミニコ会にはもう何一つ残っていないような気がします。聖霊の賜は数えきれない程多くある故、そのような心配はいりません。実際に各修道会において賛美、孤独、愛、神の栄光など、それぞれ何を最も求めるか、各会によって多少そこに特徴の強弱が生じているのです。それまではドミニコ会のモットーとしているものは何なのでしょうか。少し考えてみることにしましょう。

ドミニコが本会の兄弟姉妹に求めたことは、一口に言って会員がイエズスのみ言葉を人々に適切に宣べ伝えるための、「知識の光」です。これについてドミニコ会において名高いシエナの聖カタリナは次のように書き記しました。我々の霊父、ドミニコは、自分の兄弟姉妹が"知識の光”をもって、神の誉れと人々の教いのために働くことのみを願われました。そして更に彼女は「ドミニコの務めは、神の御独子でみ言葉と同じである。み言葉は神が聖マリアを通して、この世に与えられた光であり、ドミニコはその子らを「知識の光」で養うためにどのような食卓に招いたのであろうか。それは十字架の食卓である」と語りました。本会におけるの特徴はまさにこの知識の光」です。

知識とは知性、即ち自然的な知識の面も含まれていますが、それのみでなく心の面で悟るということです。この場合、「知識の光」とは本来、「真理」と同じ意味にとればよいのです。

聖カタリナが使用した「知識の光」という表現は「真理」そのものを示しています。神はの真理に特別の熱情を抱く霊魂に対して、ドミニコを初め、会の偉大なメンバーを指導者として提示しておられます。

しかし、実はドミニコ会の霊性をそんなに簡単にとらえることは出来ません。その特徴を規定しようと試みるならば、一方では霊性に含まれている種々の要素、特に会の目的を全うさせるための四つの要素の多様牲と、一方では容易に定義を許されない単一性に圧倒されるのを覚えます。霊性を構成している種々の要素や原理はその各々について分離して考える時、それぞれ容易に他のものと調和出来るとは思われないのです。これらの要素の当初は神秘に閉ざされており、それが啓示されるのは実際にこの霊性の道を歩むように召された人に次第に行われる他はありません。ドミニコ会の霊性を歩むように召された会員はこの霊性をあいまいに或いは感情的にだけとどまらず、「知識の光」をもって神の誉れと人々の救いのために働くように召されたのですから、会員は常に理牲と研究や反省によって本会の霊性の深さとその広さを理解し寛大に生かすよう努めねばなりません。

ドミニコ会の霊性を規定しようと試みる時、あるドミニコ会の歴史家は次のように言っています。「ドミニコ会に霊性そのものはありません。これを聞いて、おそらくつまづきを受ける兄弟姉妹が多いかもしれませんが、どうか安心して下さい。私が言いたいのは、ドミニコ会の霊牲はイエズスとその弟子達が生かした霊性、つまり福音的勧告そのものです。」

この歴史家の言っていることはおもしろいけれども、しかし次のようにつけ加えないと誤解を招く恐れがあります。本会に霊性はあります。本会の霊性を規定する種々の要素は会の目的から生まれ出ていてその目的と一致するのです。会の目的を知るならば自づとその霊性と特徴も理解できるのです。

これについてドミニコ会の基礎的会憲は次のように述べています。「聖ドミニコによって創立された説教書兄弟会は当初より、特に説教と救霊のために設立された者として知られていました。有徳かつ敬虔に身を持し、福音の人として救い主のあとに従い神と共にあるいは神について、自己と共にあるいは隣人と共に語らねばならない」(1の2)。

み言葉をもって人々の救いのために働くという会の目的を果たすための手段をも会憲は語っておりますが、これは要するに使徒的なつとめに参与し、ドミニコによって定められた使徒的生活をし、福音的勧告の誓願を忠実に守り、典礼の共同奉仕、勉学には忍耐強く、修道生活の規制を遵守すべきです。又、伝統的生活は、本会の祈りや信心(例えば聖母マリアに対する信心)やトマス・アクィナスによる神学的研究を生かすなどの特徴を有しているのです。「我が会の霊性は巾広く、喜びに溢れており、香ばしい薫でいっぱいの楽園のようである。」とシエナの聖力タリナは書いていますが、彼女のこの言葉はいうまでもなく、ドミニコを始め、その弟子トマスの神学的なものに基づいています。

又、トマス・アクィナスは、ドミニコ会の霊性について、「我が会の霊性は観想の充満から湧き出る宣教である」と言っていますが、正にその通りです。ドミニコ会の霊性は観想的かつ活動的であると言うよりも、観懇の充満より溢れ出た宣教と言えましょう。一言で言うならば、ドミニコ会の霊性とは、「真理」そのもの自体です。「私は真理を証明するためにこの世に来た。誰でも真理を愛する人は私の声を聞く」(ヨハネ、18.37)。又、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にするのである(同、8.32)。

若し、ドミニコがイエズスに似ているのならば、同じことを言われたでしょうし、彼だけでなく、その後継者たるわたし達も同じ様に言われなくてはならないと思います。イエズスのあとに従って歩みたいと思ったドミニコは、この「真理」を身につけ、会の称号、目的としてこれを選びました。それは、固く冷たい非人間的な真理ではなく心から神に向かって、"父よ”と叫ぶ、真理そのものです。さて次のドミニコ会の霊性の土台となる、観想、活動、祈り、典礼について語ってみることにしましょう。

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