Convento de San José
Sei Yosefu Shudoin
Kinuyama 5-1621-1, Matsuyama-shi, Ehime-Ken 791-8025, Japan
Tel. 81 89 926 1171
E-mail.sanjose_japan@yahoo.com

日本への ドミニコ会士の 宣教活動の 歴史

「星に輝く使徒」
J・G・バリエス編を元にしたこの本は日本でのドミニコ会の歴史をとてもよく説明しています。

2.甑における第一歩

 8日から10日後、修道士を殿のところへ連れて行くために身分の高い二人の武士が供者と乗物(フライ・ファン・デ・ラ・アバディーアの報告第57葉によれば「鞍と手綱のついた馬」)をもって甑へ来ました。パードレたちは管区の規則を守るために馬に乗ることを拒絶し、「そのころ沢山の雨が降って路が悪かったけれど」(アバディーア報告第58葉)大きな川を渡る場合のほかは、徒歩で旅をしました。ついに殿の市に到着しましたが、それはその当時、鹿児島の東海岸の帖佐と呼ばれる土地でした。殿や殿の秘書、殿の兄弟が彼らを歓迎しました。彼らはある立派な家に泊まりましたが、その家の主人は修道士の秀でた模範や生活ぶりを見て、妻や息子と共に改宗しその時からこの家を祈祷所としたので、大勢の人びとが前に述べた聖母の画像を見に来ました。

 パードレたちは島ではなく本土に教会や修道院を造って説教をする許可を早く得たいと希望していましたが、殿は彼らを8月から11月まで留めておきました。11月に教会を建てる許可を与えてはいるものの、再び修道士を甑へ送り返しました。おそらく、将軍の許可なしに彼らを呼んだ事への恐れからそうしたのだと考えられています。彼らをマニラから連れて来た船長は、偶像の小さな社寺の木材を買って(全部で8ペソ程度)それで修道士のために教会と修道院を造りました。むしろの敷いてあるふたつの部屋に分け、ひとつは教会としてひとつは居室に当てました。食事・薬品および寒暑を防ぐ設備の貧しさについて、ファン・デ・ラ・アバディーア修士は自ら体験した証人として如実にこれを描写しています(1)。

 11月の末、管区長代理フランシスコ・モラーレス神父は日本の出来事を報告するためにスマラガ神父をマニラへ送りました。鹿児島で乗船し28日に出帆しましたが、29日に船中で火災が起こったので、また戻らなければなりませんでした。1603年の3月に再び出帆、しかし海流のために船は交趾支那へ漂着しました。そこに他の日本の船が数隻入港し、そのひとつに伝染病(ペスト)が発生しました。スマラガ神父は患者を霊的に救うために、その船に乗って日本へ帰り、彼らの間で多大の霊的成果を挙げました。

 甑におけるドミニコ会士の生活は狭さと貧しさを忍ぶだけではありませんでした。そこで彼らは言葉を覚えましたが、良い言葉遣いをする者がいないので非常に苦労しました。島の百姓たちの用いる悪い言葉が癖となる事を彼らは嫌いました。なぜならそれは下品であるから、内地(島でない本土)で使うべき言葉ではなかったからです(2)。そのため、日本語の書籍を通じてのみこれを学びました。

 言葉を覚えるに従って彼らは仕事を始めました。キリシタンを訪ねるために、この島(甑)から本土へ時々行きましたが、そのために大きな苦労をしました…しかしすべてそれは有益でした。なぜならば、キリシタンの上に成果を挙げたし、またそれとともにこの訪問によって日本の人びとにカトリックの教えを知らせたからです。(3)

 1604年の初めにモラーレス神父は長崎へ眼病の治療に行って、そこに一ヶ月滞在し、「彼の知っている言葉で(未だ初めだからその言葉は多くはなかった)ロザリオの組のことを話し……わずかの日数で二万以上の会員がこの聖なる教えの組の名簿にその名を登録しました……」(4)。長崎におけるこの滞在中にモラーレス神父はイス・セルケイラ司教に、甑においては死にひんしたふたりの者に洗礼を授けたのみである、と言いました。

 しかし、1604年の2月以降、ドミニコ会士の熱意と布教活動はさらに活発になりました。1604年の春マリラの管区会議に宛てて書いたモラーレス神父の書簡がそれを示しています。(5)

実際にフランシスコ・モラーレス神父は前記のごとく長崎でセルケイラ司教に会った数ヶ月後すなわち1604年ほとんど終わり頃、同司教宛に書いた書簡の中で、次の諸事項をローマに知らせていただきたい、と希望しています。それは、彼らが甑で無為に過ごしているのではないこと、初めは言葉もよく解らないしその土地の風習も十分には知らず、薩摩の住民は霊の救済にほとんど関心がないので、初めは洗礼を少しずつ行っていたが、それでもその時期に彼自ら大人・子供合わせて80名に授洗し、最初よりは洗礼の扉が開かれたように見える、なぜならば京泊のみでも多数の人びとの心が信仰に向かっていて、キリシタンの子供8人と大人12人に洗礼を授け、(薩摩の)祁答院においても何人かの子供に授洗した、ということです。

 1604年3月24日付管区会議宛モラーレス神父の書簡は、特別な事情から会議のメンバーたちに会わなければならなかったアロンソ・デ・メーナ神父がマニラへもって行ったに違いありません。その特別の事情というのは、まさしく薩摩の大名の要求によるものでした。実際に、島津忠恒は1603年、将軍・徳川家康に対して敬意を表すために伏見へ行きました。その結果、両者は和解して味方となり、将軍は薩摩領をも訪ねようと言いました。薩摩の大名は将軍との和解を機にその名・忠恒を家久に変えました。島津家久は自領に戻ると将軍の希望をモラーレス神父に伝え、モラーレスはアロンソ・デ・メーナ神父を伏見へ派遣して将軍に敬意を表しました。将軍は非常に満足して神父を迎え、京都に教会を建てるように勧めるほどでした。ミニコ会士のこの訪問の成果を見て、薩摩の大名は将軍に対する恐れの全くなくなったことを知り、メーナ神父にマニラへ行って薩摩領に貿易船をよこすことを交渉するように求めました。ドミニコ会士は、非常に難しい要求でしたが、1604年5月9日からマニラで開かれる管区選挙会議を機として、アロンソ・デ・メーナ神父をフィリピンの首都へ派遣しました。

 メーナ神父とともにトーマス・エルナンデス神父も病気のために日本を去りました。それは1604年の管区会議の公式記録は、日本宣教の任務に命じられている人びとの中に彼の名をあげていないし、オシオ神父の「1602年第七次布教団員伝記」Reseña Biográfica del P. Ocio, Misión Ⅶ,1602の中に、彼が出帆するとき病気であったことが明らかになっているからです。

 会議においてメーナ神父は日本の布教について報告をし、それに基づいて会議はフランシスコ・デ・モラーレス神父を薩摩国サント・ドミンゴ修院長とし、その修院所属の修道士としてアロンソ・デ・メーナ、トマース・スマラガおよびファン・アバディーアを任命しました。その修院を日本準管区の修院として受け容れ、選挙権を与えました。会議はこのときには日本へ修道士をひとりも派遣しませんでしたが、1604年6月24日に第八次布教団が15名の修道士を伴ってスペインからマニラへ到着したので、新任の管区長ミゲール・デ・サン・ハシント神父はファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエーダ神父を日本へ派遣しました。オシオ神父の記録によれば、直ちに目的地へ向かって出帆したものの、それは確かに7月でメーナ神父と一緒でした。マニラと薩摩の貿易については会議では何も回答していません。しかしマニラのドミニコ会士が大部分は管区の負担で、スペイン人ディエゴ・ホルヘを船長とする貿易船を準備したことは事実です。この船は1605年の春から夏の初めに薩摩へ到着しましたが、激しい風がこれを鹿児島港の沿岸に吹きつけ、ほとんど全部が失われてしまいました。ドミニコ会士はこの災難の中に神の御心を見、今後はこの貿易という手段には頼るまいと決めました。

 それにもかかわらず、薩摩の大名はメーナ神父がマニラへ行ったことで満足し、将来ドミニコ会士が彼の領内に貿易を招来する上に役立つことを信じ、「彼が費用を負担して修道士のために教会と修院を建て、神父たちには全く費用を使わせず、かえって数多のろうそくおよび彼らに仕えるために200人の人間を提供し、もしそれを希望しないならば米200俵の俸禄を与えよう、と申し出ました。神父達は殿に深く感謝しましたが、このサント・ロザリオ管区において誓ったことに背くので、それを受けることを希望しませんでした」。

 こうして彼らのために、「同じ島の中に殿が与えたのよりもよい場所に」修院と教会が建てられました。この新しい場所は(甑の地質上の特徴から判断すると)海岸が京泊と向かい合っている群島の最も北部、現在の里村の近くであると考えられています。この2番目の教会は、1605年8月15日の初ミサによって落成式が行われた。しかし14日後に強い台風によって崩壊、そのときメーナ神父は教会を本土に造ることを殿に求め、殿は彼らのために「港の入江の部落の外にある丘の中の静かな眺めの非常によい場所…異教徒たるふたりの仏僧の間にある場所」を選びました(25)。これは川内川の流れ口、甑に向かい合った京泊の町の近くです。修道士たちはみな直ちに京泊へ移りました。


(1) ABADIA, o.c. fols. 62, 62v; Relación truncada c.ⅠⅩの初め。
(2) MORALES, o. c., fol. 86v.
(3) MORALES, o. c., fol. 87.
(4) MORALES, o.c., fol. 87.
(5) Cfr. LOPEZ, O. P. (Fr. Juan), Historia de Santo Domingo, Part. Ⅴ,Lib. Ⅱ, fols. 268, 269; C.R. BOXER and J. S. CUMMINS,The Dominican Mission in Japan(1602-1622) and Lope de Vega, Appendix Ⅶ,en ARCHIVUM ORDINIS PRAEDICATORUM, vol. 33, pags.86-88, Romae, 1963.
(6) ORFANEL, Historia Eclesiástica, c.Ⅰal principio.

Copyright (C) dominico. All Rights Reserved.