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日本への ドミニコ会士の 宣教活動の 歴史

「星に輝く使徒」
J・G・バリエス編を元にしたこの本は日本でのドミニコ会の歴史をとてもよく説明しています。

10. 最後に流された血

 この同じ1634年琉球で捕えられた数名のスペイン人は、夜間日本人が聖像やロザリオを持って彼らのところにかけつけ、もし司祭であるなら告解を聴いてもらいたい、と懇願するのを見ました。これを聞いてマニラにおいてはドミニコ会士が官憲にかくれて船を準備し(1)、それでアントニオ・ゴンサーレス(管区長代理)、ギリェルモ・コルテ、ミゲール・デ・オサラーラおよびビセンテ・デ・ラ・クルース(前はルイスと称した)、日本人司祭シオズカらが日本へ向かいました。この日本人は出発前に修練士として認められ、途中で誓願を立てた人物です。ラサロという立派な日本人キリシタンおよびマニラのビノンド生まれの混血、ロレンソ・ルイスが彼らに同行しました。若干航海の仕事を知っていた、一修道士が航海士となり、水夫は数人の中国人およびその他の人々で、これらは琉球から引き返すことになっていました。

 彼らは1636年7月10日に琉球に到着し、すぐに抑留されました。そののちコルテ、オサラーサ、ビセンテの諸神父は薩摩に流れ着き、それから長崎には1637年9月13日の午後上陸しました。最初の神父の一団は裁判官の前に出て、その修道会および彼らの来た目的である福音に関して質問に答え、フランス人のコルテ神父はオランダ人と手を結ぶ意思はないと述べました。それに対する回答として、水責めや爪と肉の間に針金を突き刺す拷問が加えられ、彼らは瀕死の体となりました。しかし、これにさらに3回の拷問が加えられたのです。

 アントニオ神父と2人の民間人も裁判官の前へ引き出されたのですが、神父がその機会に信仰を説いたので、彼とふたりの民間人に水責めの拷問が加えられました。23日に同じ拷問が彼らに行われ、その結果、前から熱のあった神父は24日の夜明けに亡くなりました。9月27日に残っていた3人の神父とふたりの民間人は牢から引き出され、馬に乗せられて市の主要な街路を厳粛に引きまわされ、殉教の場へ連れて行かれました。そこで、足を上にし頭を穴の中に入れ重い板で蓋をする最も恐ろしい穴吊りの拷問にかけられたのです。その日と翌日この状態でいましたが、激しい苦しみのため、口や鼻から血を流し始めました。しかし彼らは互いに励まし合っていました。ふたりの民間人はこの拷問で死亡し、神父たちは斬首されました。この時、ビセンテ神父は身体が弱かったので地上に倒れていましたが、ギリェルモ・コルテ、ミゲール・オサラーサ両神父は手を合わせ跪づいて両眼を空に向けていました。1637年9月29日のことです。

 こうして17世紀の日本におけるドミニコ会士の偉大な布教の仕事は終わりを告げました。ドミニコ会士が日本のために17世紀に行った仕事は以上に述べたことのみではありませんが、私たちは今ここにそれらの全てを紹介するつもりはありません。ただ、マニラのドミニコ会士がマニラから日本のために大きな努力をしていたことは伝えたいと思います。たとえば、日本のために日本人の宣教師を養成しましたし、さらにはまた前に述べた日本人ドミニコ会士のほかに、台湾から日本へ行く途中フィリピンのカガヤンで1627年に死亡したルイス・デ・サント・トマース神父や1637年に台湾からマニラへ帰ったフェリーペ・デル・エスピリトゥ・サント神父のような人々もいます。ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父も1623年に日本へ派遣されましたが、しかしトマース・ハシント神父の1630年1月3日付管区長宛の書簡によれば、彼は琉球で亡くなりました(3)。1633年には管区はハシント・デル・ロサリオ・エスキベール神父を日本勤務に指名しています。しかしこの神父は中国人の船で日本へ向かったものの、宣教師を殺せば日本で賞金がもらえるという欲のために、中国人がこれを殺しその鼻と耳を切り取り塩漬けにしてこれを日本へ持って行きました。長崎においてそれに多額の賞金が支払われ、日本のドミニコ会士は重要な人員をひとり失ったのです。エスキベール神父に対するこの背信行為は1633年8月9日と10日の間に行われました(4)。

 長々と述べて来た歴史については、ここで一度終えますが、これで17世紀の日本におけるドミニコ会の活動が幾らか明らかになったものと思います。日本からドミニコ会士が消え去ったのは、この国の人々の心の中におけるキリスト教の最後の鼓動とほとんど時を同じくしています。なぜならば1638年4月14日の原城の敗北によって、日本における、外面上の公的なキリスト教としての活動は終末を告げたからです。そし今から150年前まで日本の門戸は外国人に対して固く閉ざされていました。それにもかかわらず、昔のあのドミニコ会士たちは日本において人々の心の中に今もなお生き続けているのです。それは、ただ彼らが信仰を拡め、極めて適切な組織を通じて信仰を日本人の間に維持するように努めたことによるばかりではなく、あれほど教え込まれ拡められ、長崎およびその周辺の地方の人々の子孫の間に維持されて来た、ロザリオの信心の力によるものなのです。。


(1) GONZALEZ (D)., O.P., Relación del Ilustrísimo…en 1637, Manila, c. Ⅱ.
(2) 同上。これらの殉教のそのほかの資料はすべて、その報告からとられている。パードレ・ゴンサーレス自身もその続きの中にそのまま写し、それはⅡ parte de la Historia…, Aduarte, cc. LⅩ-LⅩⅠ.にある
(3) A.P,MSS., t. 19.
(4) ADUARTE, Historia…, Ⅱ, c. ⅩLⅥ, pp. 425-426; OCIO, Reseña biográfica (Compendio), 1626, Manila, 1895, p. 124.

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