Convento de San José
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日本への ドミニコ会士の 宣教活動の 歴史

「星に輝く使徒」
J・G・バリエス編を元にしたこの本は日本でのドミニコ会の歴史をとてもよく説明しています。

9.火刑への完全な犠牲

 ルイス弥吉はその伴侶とともに8月16日から10月2日まで、彼らが平戸から乗って来た舟の中にいました。10月2日に取り調べに呼び出され、棄教しなかったので殺されました。ルイス弥吉は火刑、妻ルシーアと息子フランシスコとアンドゥレースは斬首、アンドゥレース・コーライ・クロビョーエとその子ペドゥロは斬首、その他の人々、トマース・サクド、マンシオ・クロビョーエ、コスメ・サクドは斬首されました(1)。

 コリャード神父は、この英雄の栄光の最期を見たのち、管区長の厳命により管区会計係としてローマへ行くために、1622年11月に日本を去ってマニラへ向かいました。そのため、日本にはただ2人のドミニコ会士、管区長代理ドミンゴ・カステリェトゥ神父とペドゥロ・バスケス神父のみが残されました。

 迫害者は特にバスケス神父を探していました。それは彼が1622年8月に変装して長崎の牢に入り、囚われ人の告解を聴いたのですが、そのひとりが後になって棄教し神父の件を陳述したからです(2)。しかしバスケス神父はそれ以上隠れず、カステリェトゥ神父に注意されたときには、神の希望し給う時に捕えられるであろうと答えました。それは実際に1623年4月19日御復活の火曜日、全く思いがけない時に次のように起りました。神父は有馬へ行く前に、山の中の1軒の家でカスティリェトゥ神父と会っていました。そこにポルトガルの婦人イネース・コレーアがルイス・フローレス神父の遺体を安全に埋葬するため舟でもって訪れました。穴を掘っている間、ふたりの神父がスペイン語で話していると、奉行のふたりの配下の者が竹を採りにそこに来ていて、なれない言葉を聞いて壁からのぞきふたりの神父を認めました。そこで銃を取りに戻って再びその場に駆け付け、両修道士を捕えようとしたのです。カステリェトゥ神父は山の上へ逃れましたが、バスケス神父は敵の手中に落ちて捕えられました。イネース夫人は、初め警吏を抑えようとし、そののち金銭で彼らを買収しました。しかしバスケス神父は神の御心に反することとして、彼女のなすことを止めさせました。そのため警吏は神父に襲いかかり、これを堅く縛って長崎の奉行所へ連れて行きました。そこからクルス町の牢に送られ、59日後の1623年6月15日に、玖島と言う殿の城の見える大村の牢へ移されました。長崎を出るときに人々にまじってカステリェトゥ神父が彼に近づき、互いに感動して挨拶を交わしました。

 マニラでは日本を宣教師のいないままに棄てておこうとはしませんでした。修道士が総督や司教と会見した後(3)、ドミニコ会としてはディエゴ・デ・リベーラ(彼は途中で亡くなりました)、ドミンゴ・デ・エルキシア、ルカス・テル・エスピリトゥ・サントおよびルイス・ベルトゥラン・エクサルチ(聖ルイス・デ・ベルトゥランの親戚)の諸神父が日本へ向かいました。1623年6月19日には鹿児島へ到着することができ、若干の事件ののち11月14日に長崎へ移りました。しかしその少し前に、長崎に住んでいるスペイン人は日本を立ち去るべきこと、日本人は異教徒でないならばマニラへ行ってはならぬ、という将軍の命令が出ていたので、エルキシア神父は伴侶の代表として日本を立ち去らせる許可を奉行所に求め、実際に3人はマカオのポルトガル人の船に乗船しました。(11月下旬の事です)しかしカステリェトゥ神父はキリシタンの舟乗りとともに出かけて8レーグアの沖で3人を収容し、長崎へ戻って長崎の近くの乗船する前にいた同じ村で日本語を学ぶように、この新しい神父たちを迎えたのです(4)。

カステリェトゥ神父は前にはバスケス神父と交替で、長崎および大村・有馬などの近隣地方の世話をしていました。今や彼の活動はほとんど長崎のみで行われていました。若い修道士は長与の近くの大草村で日本語を学んでいました。しかしエルキシア神父は1624年の1月下旬、即ち2カ月後には、彼の未完成の言語で大草・喜々津・長与・諫早などのキリシタンの告解を聴いてその世話をしなければなりませんでした。ルカス神父とベルトゥラン神父もその年の四旬節には仕事を始めなければなりませんでした。エルキシア神父が大草と長崎で働いているとき、ルカス神父は長崎で、ベルトゥラン神父は大村で仕事をしていました。

 ルイス・ベルトゥラン神父は彼の愛情とその清い生活によって大村の人々の心を深く惹き付けたので(5)、人々は彼を自分たちのところから離すことを希望せず、ただ迫害の危険と言う理由のある場合のみ、神父を隠しました。こうして彼は1626年まで仕事を続けました。

 バスケス神父は大村の近くの放虎原で、1624年8月25日にイエズス会士やフランシスコ会士とともに焼き殺されました。

 1625年は比較的に迫害の平穏な年でしたが、その年の末12月23日に長崎の指導者たちは会義で、宣教師がいるに違いないと思われるキリシタンの家を襲って探索することに決めました。これは幕府の命令によるものと考えられています。なぜなら1625年の陰暦の正月に将軍に対する挨拶のため奉行・長谷川権六と代官・末次平蔵が江戸へ上ったとき、キリシタンの取締りに効果を挙げていないという理由で、権六が水野河内守という者と交替させられているからです。平蔵は自分の一族の中の者を棄教させるために捕えなければなりませんでしたが、目的を達することはできませんでした。

 河内守は長崎のキリシタンを根絶せよという命令をもって来ていました。それを遂行するために、キリシタンに対する酷しい処罰の布令を出し、キリシタンである奉行補佐や町の乙名を罷免し、キリシタンの財産を没収し、キリシタンの信仰の者から公の職を奪い、キリシタンに長崎を棄てて山へ行くことを命じました。ルカス・デル・エスピリトゥ・サント神父はこの不幸に襲われた何千という人々とその悲しみをともにし、その人々の涙を拭い、山奥で40日間、ただ湯でゆでた大根の葉以外の食物は何もないような状態で過ごしました(6)。

 ベルトゥラン神父は数ヶ月後に大村へ戻りましたが、その地は変わり果てた姿となっていました。どのキリシタンもあえて自分の家を申し出ようとはしないので、癩患者の小屋に泊まらなければならなかったほどです。そこで非常に信仰の助けを必要としているふたつの部落のひとつで告解を聴き終わった時に、 一キリシタンの裏切りによって、1626年7月22日に協力者、マンシ(老人)とペドゥロ(16歳)とともに捕らえられました。牢内でこの神父はこれらふたりの信心深いキリシタンにドミニコ会の聖服を与え、マンシオ・デ・ラ・クルース修士およびペドゥロ・デ・サンタ・マリーア修士と名付けました。1627年7月29日に誓願を立て、その同じ日にルイス・ベルトゥラン神父およびその他のキリシタンとともに焼き殺されました。

 一方、ドミンゴ・デ・エルキシア神父は長崎で働くことができないので、日本の北部(おそらく1627年の春)へ行ってフランシスコ会およびイエズス会士といっしょに布教しました。

 ルイス・ベルトゥラン神父の次に管区長代理ドミンゴ・カステリェトゥ神父が1628年6月15日に捕えられました。一軒の家にいて全く油断していた時、そこに修道士に気付かれず家の者の妨害も受けずに、警吏が入って来ました。捕えられた神父は長崎の牢へ連れて行かれ、一ヶ月ののち大村へ送られました。大村牢内で神父は彼の協力者トマース・デ・サン・ハシント修士(30歳)を修道士としてドミニコ会に受け入れました。数ヶ月の間きわめて厳格に会則を守り人々の模範になる生活を送ったのち1628年9月8日に、新しく誓願を立てた人々および一群のキリシタンとともに長崎で焼き殺されました。

 1629年5月5日の選挙管区会議において決定されたエルキシア神父の日本管区長代理任命が新たに長崎にもたらされ、彼の替わりにルカス・デル・エスピリトゥ・サント神父が北部諸地方へ出発しました。エルキシア神父は下(シモ)へ下る前に、ルカス神父とよく連絡ができるように京都で一軒の家を借りました。1628年から1629年の8月までは長崎はいくぶん平穏でした。しかし7月末に長崎奉行・水野河内守は竹中采女と交替し、この竹中采女が8月初旬に長崎およびその周辺を破壊し始め、キリシタンが逃げないように道をふさぎ、信仰の最も強固な者から始めて、キリシタンを島原雲仙岳の硫黄の熱湯へと送りました。だれをも殺そうとはせず、彼らの身体に熱湯をかけて苦しめ、傷が治るとまたそれをくり返しました。他国へ逃れた者も大勢いましたが、大多数は山中へ逃げ込みました。しかし後にはキリシタンを狩りだすために大村・諫早・有馬から役人が出て行って、山を崩し樹木を伐採し火をつけたのです(7)。

 エルキシア神父は急迫した危険を前にして白昼街路を逃れ舟に乗って1レーグア行き、藁を積み上げた中に匿れなければなりませんでした。1629年11月14日に再び舟に乗り、彼自ら舟を漕いで逃げました。翌日夜が明けたとき、迫害者の舟をすぐ近くに発見したのですが、奇跡的に逃れて長崎から75レーグアも遠くに離れることができました。しかしそこでもまた、長崎で彼を訴えた一異教徒に遭遇し、厳しく追及されました。神父は(彼のために追放された)彼の宿主といっしょになって、他領へ移りました(1630年の6月頃)。7月には再び長崎にいて「失われた羊を集めて(8)」いました。すべてこれらの出来事をエルキシア神父は1630年10月18日付の書簡の中で管区長宛に述べています。

 ルカス・デル・エスピリトゥ・サント神父は京都の借りた家から他の地方へ行って(1629年)海陸で嵐や雪に遭遇し、異教徒の宿に泊まり、彼を捕えなければならない立場の人々の援助や保護さえも受けながら、マニラの修道士のだれも踏んだことのない日本の北の果てまで到達しました(9)。それらの地で日本人ドミニコ会士トマース・デ・サン・ハシント西ヒョージ神父(六左衛門という名で知られている)と逢っています。これはマニラにおいて教育を受けた者で、1629年に管区長によって台湾に連れて行かれそこから琉球へ渡り、ルカス・デル・エスピリトゥ・サント神父から洗礼を受けたルカスという者とも逢いました。この者がルカス神父の働いている日本のこの地方へトマース西を連れて来たのです。

 1632年7月に新しい宣教師、シシリアのジョルダン・デ・サン・エステバン・アンサロン神父が長崎に到着し、直ちにエルキシア神父の家へ行きました。夜、市の門のひとつを通るときにその責任者を神父の宿主だと思って、ジョルダン神父は喜んで彼の頸に両手をまわしたので、門番は非常に怒りました。この者が怒りを静めたので、ジョルダン神父は入ることができましたが、しかし翌日夜が明けると、管区長代理エルキシア神父は彼をルカス・デル・エスピリトゥ・サント神父のいるところへ送りました(10)。11月にもうひとりのドミニコ会士が日本へ入って来ました。これはヤコボ・デ・サンタ・マリーア・ソモナガ・ゴロビョーエ神父という日本人で、1626年8月15日にマニラで司祭に叙階された人物です。彼は1632年7月9日、エステバン神父と同じ時期にマニラを出帆しました。しかし中国人の船が嵐のために流されて、朝鮮まで行ったがさいわい5ヶ月後に薩摩へ漂着しました。ヤコボ神父は1633年の3月までそこにいて、それから長崎へ移り、管区長代理ドミンゴ・エルキシア神父の前に姿を現したのです。

 ヤコボ・デ・サンタ・マリーア神父は長崎に3ヶ月近く隠れていて、酷い苦しみに遭っているキリシタンに諸秘跡を授けて立派な仕事を行いました(11)。しかし1633年7月4日に、彼の下僕が拷問にかけられて神父のいるところを自白したので、捕えられて大村へ連れて行かれました。8月14日に再び長崎へ移され、翌日穴吊りの刑にかけられて17日に亡くなりました。

 同じ日にエルキシア神父も殉教しました。ジョルダン・デ・サン・エステバン神父を日本に連れて来た中国人が彼らの間で争いを起こし、神父を伴ったことを自首したのです。これが幕府の探索をますます厳重にさせ、とくにエルキシア神父に対してはその人相書を作らせるほどでした。そしてついには密告され、長崎において逮捕されました。神父は1633年8月18日に穴吊りにかけられ、19日に46歳で亡くなりました。北部にいる諸神父がその死を知ったときジョルダン神父は、事件をよく知るために長崎へ下だって来て管区長代理としての資格をもって長崎に留まりました。

 その少し後、殉教の運命がルカス・デル・エスピリトゥサント神父の上に巡って来ました。彼は2月以来、出雲・因幡・但馬・越中・能登・越後、その他の諸国および奥州までも歩きまわって、8月14日に京都の借りている家へ戻りました。それから大阪へ行って9月6日まで大阪に留まりました。そして、その月の8日に、イエズス会の一神父および彼の忠実な協力者マテオ・コヒョーエとともに大阪で捕えられたのです。このマテオ・コヒョーエはマテオ・デル・ロサリオ修士の名をもって、ルカス神父によりドミニコ会士の資格を与えられました。

 9月9日に彼らは六左衛門(ドミニコ会士フライ・トマース・デ・サン・ハシント)の居所を陳述させるために水攻め(口や鼻から水を注入した後に腹を圧して水を吐かせる)の拷問にかけられ、兵庫・小倉を通って長崎へ送られました。小倉からは初め馬で、その後は椅子のようなもので、豊前・筑前・肥前・諫早を通って長崎へ9月24日に到着しました。ルカス神父は同じ1633年10月18日に穴吊りにされました。夜中に穴から出されたのですが、翌日再びこの拷問がくり返され、ついにその日に亡くなりました。ちょうどその日は彼の39歳の誕生日でした。

 ジョルダン・デ・サン・エステバン神父は、長崎から大村へ巡回に出て彼自ら次のように述べています。「私は8年間宣教師を行っていない幾つかの部落へ入り、大勢の告解を聴き、棄教者を立ちあがらせました(12)」。2度目の時は逃れて大村へ戻ったのでしたが「よい案内人を得て大村の諸部落へ入り、今回は未信者に教理を説き洗礼を授け、20年間告解をしていない者の告解を聴きました」と述べています。彼は大村で病気になって長崎へ帰り、そこにドミニコ会士トマース・デ・サン・ハシント西六左衛門神父のいる事を知って驚きました。この神父は、ジョルダン神父の替わりに大村へ行くことを希望したのですが、ジョルダン神父は1634年8月4日、彼らの父・聖ドミニコの祝日をいっしょに祝うまでそこに留まるように彼に求めました。この日迫害者が、一アグスティン会士を厳しく探索していたので、両名は長崎のすぐ近くのミスウラという小部落の小屋に隠れました。しかしそこで発見され逮捕され、食事も与えられない、檻のような長崎の牢に3ヶ月と7日間入れられていました。その間に3回取り調べられ、そのたびに信仰を棄てるように説得されたのです。初めは甘言をもって、2回目は水責め、3回目は焼いた竹串を爪と肉の間や局部に突き刺されました。1634年11月11日に穴吊りにかけられ、ジョルダン神父は7日後に、トマース神父はその少し前に亡くなりました。

 11月11日に、これらの両神父とともに他の69名の人々が引き出されたのですが、その中に日本でla mujer fuere「強い女(13)」と称ばれていたドミニコ会の修道女マリーアがいました。彼女はドミニコ会ルイス・ベルトゥラン・エクサルチ神父によって指導され(聖カタリーナ・デ・シエナのように自分の家に住んでいた)聖ドミニコ第三会員として認められた人物であり、「キリストおよび彼女の栄光の父たる聖ドミニコの功徳によって、キリシタンとなり第三会の会員となったことは最大のしあわせである」と裁判官の前で表明しました。それで役人は彼女を裸にして大村の全領内を引き回し、饑渇と疲労で苦しめ、ついに焼き殺したのです。マグダレーナという他のドミニコ会修道女もまたこの時に殉教しました。これは長崎の近くの小さな部落の生まれで、殉教した両親の孤児でありジョルダン・デ・サン・エステバン神父によってドミニコ会に受け容れられた人物でした。この神父が捕えられると、マグダレーナは牢獄へ行って、彼女がキリシタンであるばかりでなく修道女であることを表明したのでした。迫害者は初めは甘言で、後には穴吊り、それも水の溜まった穴にくり返し吊って彼女に棄教させようと試みました。1634年10月初旬、牢から引き出し殉教の場所へ連れて行き、水の溜まった穴に吊ったのですが、それでも死なないので頭を殴打し、彼女はその夜雨水で溺死しました。


(1) COLLADO, Suplemento…,c. LⅩⅩ.
(2) VAZQUEZ (P.)., O. P., Al P. Fr. Pedro de Santo Tomás, en ADUARTE, Historia de la Provincia…, Ⅱ c, ⅩⅩⅣ, p. 231.
(3) ADUARTE, Ib., c. ⅩⅩⅣ, pp. 215-216.
(4) ERQUCIA (D. de), O. P., Al P. Provincial, 13 de nov., 1623 (ADUARTE, Ib., p. 218).
(5) ADUARTE, Ib., p. 272.
(6) ADUARTE, Ib., Ⅱ, c. ⅩⅩⅩⅠ, p. 278.
(7) ERQUICIA, (D. de)., O. P., Al P. Provincial, 18 oct., 1630 (A. P., MSS., T. 19).
(8) ERQUICIA, Ib.
(9) Ib.
(10) ADUARTE, Historia…, Ⅱ, c. L. p. 464 .
(11) ADUARTE, Ib., c. ⅩLⅤ, p.406.
(12) FRANCISCO DE PAULA, o. c., c. 3.
(13) フランシスコ・デ・パウラ神父は彼の著書の第5章をことごとくこのドミニコ会士2名の記録にあてている。アドゥアルテはその章を Historia…,Ⅱ, c.LⅡに載せている。

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