4.教義的宣教
今まで宣べたドミニコ会の宣教に関する三つの特徴はすばらしいものですが、これから語る「教義的宣教」ということの特徴はおそらく最も大切なのであるといって過言ではありません。神が啓示されたみ教えの内容の真実を知らせることが教義的宣教であり、これこそドミニコ会に課せられた任務です。「真実を知ること」・・・人間の心を照らす灯は、真理そのものです。人間は常に心理を求め、真実を知りたいと思っています。日常の会話においても「本当ですか。」と何度も問います。だまされるのはいやだから人間は真理を探し求めるのです。誠に真理は人間の心の灯であり、真理がなければすべては暗闇になってしまいます。ひまわりの花は、太陽の陽にあたると元気になり、いつも太陽に向って動いています。同様に人間の心も真理の光に照らされ真理によって動かされているのです。
では、真理とは一体何なのでしょうか。「わたしが世に来たのは、真理をあらわすためである。」と主が言われた時、ピラトは皮肉にも「真理とは何か。」と問いましたが、その場で言っても無駄であることを知っておられたイエズスは、彼のこの質問にはあえて、お答えになりませんでしたが、他のところで、はっきりと「真理とはわたしである。」と言っておられます。(ヨ、14.6)これは、イエスズがおん父からつかわされた救い主であり、おん父についてイエズスが告げ知らせたことが真理であるという意味であり、ドミニコ会的なみ言葉の宣教の中心はこの「真理」そのものです。これは、神が啓示された真理の知恵と、人間が求める真理の知識に基づいた活動であり、他の言葉で言い換えますと、教義的な宣教であり、ドミニコ会の宣教の四番目の特徴です。
要するにドミニコ会の宣教は、道徳的であるのは勿論ですが、真先に真理を求める知識の研究がその土台におかれています。これについて本会の会憲は、次のようにのべております。「何よりも先にわたし達は福音全体を受け入れ、そして教会から与えられた伝統と解釈に従って、救いの神秘の生き生きとした理解を深めねばならない。この福音的な精神と堅実な教義をもってわたし達は常に特徴づけられていなければならない。」(99の1)「救いの神秘の生き生きとした理解を深めること・・・」これが非常に大切であることを悟ったドミニコと会員達は、各世紀に亘って、近代的な聖書学や科学の発展に関する知識を以て、み言葉を正しく宣べ伝える努力をしてきました。教義的宣教とは、このようなことです。こうして人々の心を照らしつづけて来たのです。
このことについてもう少し考えてみることにしましょう。ドミニコ会が生かしているのは、単なる知識的活動ではなく、聖書に関する知的な活動です。聖書の真理は、わたし達の知的活動を正しく導くものであり、逆でしたならとんでもない狂信であり、異端の可能性が生じてしまいます。異端者のことを思い起こして見ますと、例えばアルビ派の人々は、非常に熱心な優れた生活をしていましたが、知的活動を照らす真理のメッセージに照らされていなかったので、あのようになってしまいました。ドミニコ会の宣教の意味はここにあります。昔から現在に至るまで、教会は真理に基づく知的活動を以て、人々の心を照らすように導いてきましたが、ドミニコは教会からこのカリスマを受けてこの任務を引受けました。
聖ドミニコの生誕800年祭に当って、教皇パウロ六世はドミニコ会の総長と全会員に向けて次のようなメッセージを送られました。「聖ドミニコから、現代を照らし出すことのできる光に似たものが、輝き出ているのではないでしょうか。現代と同様13世紀も又、偉大な知的躍動が見られ、教義の研究は花開き、人々は社会開示に情熱を燃していきました。皆は物事の新しい有り方の創知について多いに語り合い、そして事実、偉大な変化が人間社会の中におこってきました。聖ドミニコは、深い洞察力を持って今や生まれつつある新しい秩序の中で、キリスト教の将来性は大部分知的運動に依存していることを見抜きました。ドミニコ会の創立当初を生かした霊感を思い出し、又、あなた方の独自性を思いおこし、説教者としての任務を果たして下さい。」
そして、これをどのように生かしてゆくか、教皇様は次のように加えられました。
「この宣教の義務は、輝度の勉学、特に哲学と神学の勉強と決して切り離してはいけません。あなた方は会則に従い、真の諸原理と正真正銘の信仰に支えられ、勉学にいそしむよう励み、この目的を果たせるよう、聖トマスを師として仰ぐべきです。彼の説教は今もなお、教会全体の相続財産を構成し、近代人を照らし助けることが出来るのであります。」聖トマスの説教のねらいは一つ、イエズスの残して下さった福音的真理を教えることです。「私は真理を証明するためにこの世に来た。」と言われたイエズスについて、わたし達も同じように言わなくてはなりません。
本会における宣教は、共同体的、使徒的、予言的であり、又、教義的でもあると言われています。こう言っただけでは、霊性と余り関係がないように感じられるかも知れませんが、わたし達の霊性は本会の目的とその目的を達成させるための手段に基づいているわけであり、その中にドミニコが決めたことで特徴あるものは勉学でした。即ち、教義的教えに基づいてみ教えを宣べるということがドミニコ会の使命です。
本会の九番目の総長であったロマヌスのオムベルトは、「我々は群衆、即ち、貴族、賢明者及び無学者、修道者及び聖職者、偉大な人、ごく一般の人に教えるのである。」と語られました。ドミニコ会の会憲の中にも「全ての民族と人々の救霊を熱烈に望んだ聖ドミニコに従って、兄弟姉妹は全ての人々、信者あるいは未信者にも、特に貧しい人々につかえることを知るべきである。」とあります。
全ての人々に仕えなくてはいけないのですが、会憲には特に「貧しい人々」とありますが、これは金銭的な貧しさを意味するのでなく、しいたげられている人や力のない人をも意味し、素直な心を以て、神のみ前に自分の小ささを認める人ということであり、霊父ドミニコ自身がそうなさったことであり、会員達にも同じように要求されています。
しかし、でらために行うのではなく、正当な勉学に基づいている教義でなくてはなりません。会憲にもありますように、言葉と書物によって聖なる教義とその信仰の理解に役立つ学問を知ることが、本質的にドミニコ会の使命です。その意味でも、ドミニコ会と勉学についてもう少し考えてみましょう。
勉学は、本会にとっては、飾りではなく、教義的な宣教をするために要求されています。勉学と言われますと、「私にはそんな頭はない。」なんて言わず、ドミニコ会員であるならば、必ずそのカリスマが与えられているということを確信し、忘れてはなりません。つまり勉学は本会固有の目的を達成するために、ドミニコが選んだ方法であり、彼は順序立った勉学を本会の理想としました。ここで誤解してはならないことは、勉学は目的を全うするための手段であり、決して目的ではありません。目的は、人々の救霊です。
ドミニコ会の勉学の内容を次のようにまとめられると思います。
1.神の啓示を研究し、それを黙想する事。
2.初代教会の指導者であった教父達と、キリスト教的思想の優れた証人達の書物を注意深く勉強する事。
3.ドミニコ会に与えられた最も優れた教師であるトマス・アクィナスの書物を勉学する事。
トマスについて、会憲は、「彼の教義は、教会が特にすすめるものであり、本会の兄弟姉妹達の知的生活に豊かな影響とその特徴ある人格を遺産として受けとっている。」(82番)と述べています。
わたし達が宣教するのは、み言葉であるイエズスです。「イエズス」という名を聞きますと、先ず「神の子であるイエズス」を思い描く信者が多いと思います。勿論、「イエズスが神の子である」といって決して間違いではありませんが、これだけではイエズスの姿のすべてではありません。「イエズスは人間である」のです、これは何となくもっと親しみやすく感じられます。彼には、わたし達と同じように名前があり、わたし達と同じように誘惑も受け、体験なさった方であり、その方の国はイスラエルと呼ばれていました。イスラエルという国は当時、他国と違って人々は、唯一の神を拝んでおり、種々意味深い習慣や伝統がありました。
それらを学ぶことにより、イエズスについてより深く理解することが出来ると思います。例えば、夏目漱石の生涯について知りたいと思うならば、彼の書物を読むだけでは何となくもの足りないでしょう。著者の心まで知りたいならば、彼の故郷について、伝統、親や友人、著者自身の希望や出合った試練などを、調べることです。何故なら、漱石の考え方と育った環境や生きた時代とは、密接な関係があるからです。従って彼の思想を理解するためには、その人との関係ある種々のことを考慮に入れ、始めて彼について理解することが出来る訳です。
イエズスについても同じことが言えます。聖書に記してあることは勿論ですが、それのみでなく、当時の習慣や様々のことを調べた上でわたし達はみ言葉を宣べ伝えるために努力しなければなりません。イエズスのお考えや思想などを知るためには、それらすべてを研究すべきであり、更には各世紀を通じて、その時代に通用するメッセージを宣べ伝えなくてはなりません。こうしてその時代にあるメンタリティ、その時代の哲学、科学的な数多くの問題点と関わりを持った教えが必要であり、これこそが、真の教えになるわけです。
イエズスについても同じことが言えます。聖書に記してあることは勿論ですが、それのみでなく、当時の習慣や様々のことを調べた上でわたし達はみ言葉を宣べ伝えるために努力しなければなりません。イエズスのお考えや思想などを知るためには、それらすべてを研究すべきであり、更には各世紀を通じて、その時代に通用するメッセージを宣べ伝えなくてはなりません。こうしてその時代にあるメンタリティ、その時代の哲学、科学的な数多くの問題点と関わりを持った教えが必要であり、これこそが、真の教えになるわけです。
これらのことを理解したドミニコは、会員達をパリ大学やナポリ、バレンシア大学に送り、特に聖書学、神学、哲学や科学に関する勉強をさせ、出来れば教授になることもすすめ励ましました。これは丁度、トマス・アクィナスが歩いた道と同じであり、彼はドミニコ会にとって、素晴らしい模範です。前にも書きましたが、トマス・アクィナスは正統な説教をする知恵を、神の子であり、人間であるイエズスとの親しい交わりによって得ていました。ある日、フランシスコ会の聖ボナベントウラが聖トマスに、その知恵はどんな本から受けとったのかと尋ねると、彼は黙って自分の机の上の十字架につけられたイエズスを差し示し、「この”本”から、その力を学んだ。」と答えたそうです。トマス・アクィナスは偉大な人であり、わたし達は小さい者にすぎません。わたし達がトマスに真似るのが、無理なことであるのはわかりますが、何か良い方法はないでしょうか。小人は巨人の肩に乗っていますと、巨人の歩む道を共に歩むことができます。勿論、肩に乗るという表現は、霊的な意味ですが、これを生かすように努力するならば、素晴らしい結果が出てくると思います。
本会の精神や霊性を生かしながら、人々を指導するということは、でたらめな指導ではなく、哲学的、神学的な勉学に基づいている教義をつたえるということです。
教皇、パウロ六世は、1970年に、「ドミニコ会の目的は、まことの原理と証明の信仰に支えられて勉学に勤しむように。その目的に達するために聖トマスを模範として尊敬すべきである。」と言われました。又、1974年の聖トマスの七百年記念の時、教皇はドミニコ会の総長と会員達に手紙を送られ、前回と同じように、少くとも本会が聖ドミニコの精神と意図に従い、聖トマスの教義説を生かしつつ、知的な研究と勉学に基づく救いのメッセージを宣べ伝えるよう努力するようにとのことでした。
勉学の促進については、特に次の二つのことが大切です。先ず、ドミニコ会の修道院は勉学の場であるということです。勿論、祈りの場であると言って正しいのですが、「各修道院で知的生活が盛んにならなければならない。」と会憲に記されています。(21番)次に、長上は、勉学に励み、すべての会員が勉強できるよう配慮しなくてはなりません。これらは、ドミニコ会において、長い経験により得たことであり、決して無駄なすすめではありません。
わたし達ドミニコ会員は、勉学を簡単にやめることはできません。何故なら勉学は、本会の目的を果たすために定められた一つの要素ですから、これを、たやすく捨てることは出来ません。ドミニコの時代、修道会は、毎日聖書を読んだり反省したりしたのは勿論ですが、肉体的な労働をも通して、観想生活をなし世を離れていたのに比べ、ドミニコ会は、革命的にもそれだけでは足りず、肉体労働のかわりに勉学いわば聖書および聖書に関する勉学によって、研究した結果を他人に宣べ伝えるようにしました。
前にも書きましたように、この点が他の会と比較しますと多いに異なっております。
わたし達は、ドミニコ会員として観想によって救いのみ言葉を受け入れ、勉学によって言葉を深め、宣教によってこれを宣べ伝えるのです。この順序を生かし養う絆は勉学であり、そのため毎日勉強することは必要であり、ドミニコはその宝を残して下さったのです。
ここに教義的な宣教とドミニコ会の霊性が、どれ程密接に結ばれているか、理解していただけると思います。本会の霊性はわたし達のうちにおいて、ドミニコの意向が、いつ、どこにおいても生かされるように努めることがあり、これを養っているものが勉学です。本会において、霊性と勉学はこんなにも固く結ばれているのです。この霊性を一口に、五分や十分でまとめて言うのは、仲々容易ではありません。言葉よりも体験です。と言うのは、ドミニコ会の生活を学び反省し、少しづつ、修道者として、あるいは「聖ドミニコ信徒会」の会員として身につけないと、おそらく本会の霊性はわかり難いでしょう。
ドミニコ会の霊性には観想的もあり、活動的な面もあります。その両面を、平等に生かさなくてはなりません。しかし、ドミニコ会の歴史を読んでみますと、会員たちは時として観想に比重をおき、活動を多少おざなりにしたり、又、ある時はその逆をしていたようです。この両面をバランスよく生かすことが非常に難しいことだと思っているある歴史家は、本会が観想的及び活動的な会であると言うのは無駄であり、矛盾していると主張しています。難しいと言えば、それまでですが、だからと言って無駄とか矛盾しているというのでは決してありません。
上記にも述べた本当の観想的、活動的生活の両面は、もともとから本会の本質的なものであり、一方をなおざりにするのは、本会の本性に欠けることになります。くりかえしますが、教会において単なる観想会と単なる活動会があれば、観想的・活動的な会もあります。この様な会は、両面が切り離せず混合会と呼ばれており、13世紀頃より教会において大切な場所に置かれてきました。
ドミニコ会は、祈り、勉学、苦業を通して創立したばかりの会を、観想生活へ導き、それと共に、観想の実りと慰めを自分だけにとどめず、信者や未信者の魂に惜しみなく注いでゆくことを、本会の独自の特徴として加えました。つまり、本会の霊性は、活動が観想の充満より流れ出るものにほかなりません。
1252年にパリ大学の教授であった司祭の一団がドミニコによって設立された修道生活の本質自体に激烈な攻撃を与え、ドミニコ会が営む霊的な生活の類型の正統性や聖性を否定しました。彼らは、修道者が従事すべきことは、祈りと肉体労働であり、教職や説教に従事することは修道者として勧徳の道から離れると主張しました。その時トマス・アクィナスは有名な「神学大全集」を書き、修道生活の本質とその霊性について、ドミニコ会の反対者の議論に見事に答えました。 さて、ドミニコ会の霊性は、典礼、共同体、福音的勧告と密接な関係があり、これらに強く色づけられているのですから、それぞれについて語ってみましょう。
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