モラーレス神父は1609年5月末に4隻の舟(3隻は荷物のため、1隻は彼自身と癩患者およびレオン7右衛門の遺体のため)で京泊を出発し、殉教者の遺体は長崎でフランシスコ会士の教会にあずけ、何よりも先に聖像と装飾品を長崎の代官(村山当安)の息子トクアンの家へ送りました。神父は「ある人物がフランシスコ会士のために買った」家に泊まったと言われています。
モラーレス神父は長崎で非常に暖かく迎えられ、1609年(1)に将軍を訪ねた時に渡された、長崎に教会を建設する許可書のおかげで、短期間すなわち同じ1609年の内に良い土地を手に入れ、直ちにそこで薩摩からもって来た組み立て式の建材で教会を建てました。モラーレス神父はメーナ神父が次のように書いていることをすべて実現することができました。「短い間に私たちはそこ(長崎)に(私たちの)修道会の修院をもつことができるでしょう。それはポルトガル人も日本人も修道士に好意をもっているからです(2)」。
また、モラーレス神父は以下のように述べています「あるキリシタン(アントニオ村山当安とその息子たち、とくにアンドゥレース・トクアン)はそれを見て私のところへ来て、『教会は非常に美しいし、宣教師も奉仕する人も大勢いるのだから、教会にぜひ御聖体を置いていただきたい。なぜなら長崎には数多の教会があるけれども、そのうちのひとつ(イエズス会の教会)を除いては御聖体がないし、遠くに住んでいるキリシタンはそのひとつにも行くことができないから』と求めました。『それは私たちの希望であるが、これを優雅に行うためには、立派な聖櫃と銀の聖体顕示器、常に燈火のついているランプおよび絶えず教会にいる番人その他のものが必要である。みなさんが知っているように、私たちは貧しいから今この出費をすることができない』と彼らに答えました。彼らのひとり(当安)が必要なものを提供すると言ってそれを完全に実行し、聖体が置かれましたが、そこにいた私たち修道士にとっては大きな慰めであり、キリシタンにとっては極めて重要なことでした。それによって教会に対して抱く信心が非常に深くなり、キリシタンが増加し大勢の人びとが諸秘跡を受けに集まって来ました(3)」。
1609年7月、トーマス・デ・スマラ神父(1608年の管区会議から帰還)とともに前管区長ファン・デ・サント・トーマス・オルマーサ神父(日本へ最初の修道士を派遣した人)およびアントニオ・デ・サン・ビセンテ修士が日本へ到着し、両名はサント・ドミンゴ教会と修院の勤務になりました。しかしこの修道士の名はそれ以降の記録には現れていません。1610年春の臨時管区会議はモラーレス神父を長崎修院区長に任命し、オルマーサ神父及びアントニオ・デ・ラ・マードゥレ・デ・ディオース・サムーディオ修士という者が長崎で勤務することになりました。しかしこの修道士もそれ以降の記録に名が出ていません。1611年、前管区長オルマーサおよび同じく前管区長のバルタサール・フォルトゥ、ハシント・オルファネール(1613年10月10日までは佐嘉から長崎へ行かなかった)、ロレンソ・デ・ポーラスおよびドミンゴ・デ・バルデラーマの諸神父が長崎勤務を命じられました。
こうして京都・大阪および肥前(佐嘉)の布教からドミニコ会士が引き上げて来て、10月末、日本における人びとは長崎の修院に集まり、管区長代理としてバルタサール・フォルトゥ神父、修院長としてフランシスコ・モラーレス神父そのほかにオルマーサ、メーナ、スマラガ、ルエダ、ホセ・デ・サン・ハシント、ハシント・オルファネール、ロレンソ・ポーラス、ドミンゴ・バルデラーマ、ナバレーテの諸神父がいました。
しかし、長上のバルタサール・フォルトゥ神父は、宣教地としての日本の重要性が極めて大きい時期に、彼らが一所にいることは適切ではないと考えました。それで何名かの修道者を他の土地へ派遣しました。ルエダ神父は有馬・天草・筑後・筑前および豊後へ行って、帰路博多において、1614年2月下旬にキリシタン追放令を知りました。そこで長崎へ帰れという緊急命令を受けました。オルファネール神父はルエダ神父と同じく、1613年11月初旬に長崎を出て浜町(佐嘉)へ向かいました。そこの教会で秘かに秘跡を授け、大いにキリシタンを助けました。そののち大村に入り、20日後に長崎へ戻りました。しかし直ちに12月の初め有馬・肥後・豊後へ行ってそこで、長崎に集合せよという将軍の命令を知り、そこからイエズス会士3人および、アグスティヌス会士ふたりとともに長崎へ連れて行かれ、1614年3月7日に長崎へ到着しました。諸神父は長崎奉行によって氏名を登録され、日本追放のため呼ばれるまで自由の身になりました(4)。
メーナ神父も佐嘉へ派遣されて浜町に幾日か滞在し、そこに近隣のキリシタンや首都・佐嘉のキリシタンまでも集まって来ました。佐嘉のキリシタンが諸秘跡を受けることを希望し、あらゆる機会に執拗に佐嘉へ来ることを求めたので、神父はそれを受諾しました。佐嘉の教会の近くはその時既に危険であったので、1キリシタンの家に宿泊し、そこでメーナ神父は思い出深く霊的に美しい何日かをすごしました。大人16人に洗礼を授け、1613年の御降誕の祝日ののち秘かに、神父は佐嘉を出て長崎へ向かいました。
メーナ神父が佐嘉を出るや否や1614年1月末、佐嘉と浜町に激しい迫害が始まりました。しかしキリシタンは勇敢に、信仰を固く維持し続けました(5)。それで最も主要な人びとのうち12名が長崎へ追放され、そこでドミニコ会の神父たちの世話になりました。佐嘉の他のキリシタンに対してメーナ神父は、絶えず書簡と忠告を与え、たびたび彼らを秘かに訪ねて励ましました。あるおりなど、浜町の川で舟の中に匿われていると、キリシタンが自ら力づけるためや告解するために夜そこに集まって来ました。佐嘉のキリシタンの中には度々長崎へ行っていた者もいます。メーナ神父は白石地方の順古村や嬉野などのキリシタンおよび彼らの集団の美しい英雄的模範について述べています。
1614年に始まった全国的迫害および宣教師追放の将軍命令はあらゆる土地で修道士・司祭に向けられ、彼らを長崎で船に乗せて日本から追放するために、彼らをそこへ集めていました。ドミニコ会士はこの衝撃に対して準備を整えていました。彼らによってトマース・スマラガ神父がフォルトゥ神父の代わりに管区長代理に選出され、オルマーサ神父が5月4日からマニラで開かれる管区会議における代議員として選ばれ、戻って来ない予定でした。彼とともにロレンソ・ポーラス神父がマニラへ帰りました。フォルトゥおよびバルデラーマ両神父は将軍が宣教師を追放するときに、マニラへ出発するはずでした。モラーレス、オルファネール両神父も奉行によってその名を登録されているため追放される予定でした。しかし沖で彼らを収容する舟が準備され、すぐさま日本へ戻る事となりました。他の神父たちは隠れて密かに滞在を続けました。この取り決めに従って身を隠す諸神父は公に姿を現さないように努め、追放の時が近づいた際には、人々の目につかないようにしなければなりませんでした。
長崎奉行・長谷川左兵衛は江戸から宣教師やキリシタンを威嚇するのみでした。村山当安やその息子たちを頭とするキリシタンはキリシタンの将来を憂慮し、ほとんどすべての修道会の忠告によって、教えの組を組織することに決めました。その基本精神は、何が起ころうとも常に信仰を維持することにありました。そしてそれぞれの組はその精神に基づいて慎重で有効な方法を採りました。1614年4月から数多の教会を出発して行われたあの有名な行列はこの時期のことであり、それについては多かれ少なかれ、当時のすべての著者が述べています(6)。
注
(1) MORALES, El Principio, fols 88, 88v, 89.
(2) Al P. Aduarte (nota 127), o. c.
(3) MORALES, El principio, fol. 89v, 90; MORALES, O. P. (Fr. Francisco), Relación de Toan, fols 306v, 307 (A. P. MSS. T. 301); MORALES, O. P. (Fr. Francisco), De Andrés Toquan…, fol. 105v (A. P. MSS. T. 301).
(4) ORFANEL, Relación, 1619, fols. 114, 114v, 115, 115v.; ORFANEL, Historia, c. ⅩⅡ, fol. 24.
(5) MENA, rel. cit c. Ⅳの初めの部分。
(6) ORFANEL, Historia, CⅩIIII.これらの「教えの組(コフラディーア)」に関する最もすぐれた著者はスペイン人貿易商人ベルナルディーノ・デ・アビラであり、写本の第39章にそれが記録されている。LEON PAGES, Historie, 125の中にそれを読むことができる。
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