6月23日、9月13日、10月11日およびその他の日に、長崎奉行は宣教師の日本退去に向けて、厳しい追及を開始しました。こうして10月26日には外国人はほとんど全員が長崎を出て福田へ行き、日本人は木鉢へ行きました。6日には3隻の船が出帆しました。その1隻はイエズス会の優れた人々を載せてマカオへ、2隻はマニラへ向かいました(大きい方の船は高山右近やその他の著名なキリシタンを載せ、小さい方は息子のために当安によって準備されました)。当安の船には他の4人の日本司祭、3人のフランシスコ会士、二人のドミニコ会士が乗りました。この当安の船に乗った人々はひとりのフランシスコ会士を除いてことごとく、迫害者の兵が引き上げた後、2レーグア沖へ出たところで他の舟に収容されました。
日本に再び入って来たドミニコ会士はモラーレスとオルファネール両神父であり、続けてマニラへ向かったふたりはバルタサール・フォルトゥ神父とドミンゴ・バルデラーマ神父でした。他のドミニコ会士は追放から逃れました。管区長代理スマラガ神父は長崎のキリシタンの家に隠れ、ホセ・デ・サン・ハシント神父は変装して未だ京都にいました。ルエダ神父は、山の中に間口も奥行も一ひろあまりの小屋を造り、一人の男とそこおよびその後に移った別の小屋に51日か52日の間滞在しました。ナバレーテ神父は、修道者たちに乗船を強制する嵐のような追及がすぎ去るまで、港から港へと停泊してゆく舟の中にいました。メーナ神父は「神父たちをことごとく乗船させるだろうと心配している当安やその息子たちの求めによって(1)」代官・当安の家にいました。モラーレス神父はアンドゥレース村山トクアンの家に迎えられ、オルファネール神父は11月6日のその夜長崎へ入って、長崎の他のキリシタンの家に迎えられました。
11月3日にはすでに教会の取毀しが始まった。15日には大きな教会はみな、キリシタンの深い悲しみのうちに、打ち倒されました。それから直ちに長崎奉行・長谷川左兵衛は、1614年の夏から任されていた有馬領を迫害しようと決めて、11月17日に薩摩および肥前の大名の兵を伴って有馬へ行きました。口ノ津で迫害の布令を出し、その時はそこでは実行せずに、ある者は有馬へある者は島原へ向かいました。有馬へ行った者は20日の木曜日に怒り狂って迫害を始め、家々に入ってキリシタンに関係のある物品を没収し、信者に恐ろしい拷問を加えました(2)。およそ20名の勇敢なキリシタンはその苦しみに耐え、殉教をもってその信仰を証明しました。その中でジョアン高屋久左衛門、コスメ高屋チョービョーエおよびミゲール・コガネマルが際立っていました。
迫害は隣りの村・有家で21日の朝続けられ、そののち徐々に残忍さが増大していって、口ノ津では21日から23日まで続けられました。
11月25日に奉行・左兵衛とその供者が有馬から長崎へ戻り、長崎において迫害を続けるかどうか審議を行いました。しかし徳川家康と豊臣秀頼の戦闘の知らせが迫害を取りやめさせたのでした。なぜなら左兵衛が直ちに江戸へ出発しなければならなかったからです。しかしその前に、左兵衛は有馬からもらって来たキリシタン関係の物品を公衆の面前で焼き、11月28日に小浜において4人の武士を殺しました。そのうちふたりは29日と30日に亡くなりました。1614年の12月の初めに左兵衛は江戸へ出発し、代理に甥の長谷川権六を残して行きました。この者はその性格が残忍ではないので、代理という臨時の資格で戦乱の結果を待ちながら平穏・寛大な態度を示していました。
宣教師は長崎におけるこの平和を利用し、「できる限りの仕事をし、極めて自由に諸家の家でミサを捧げ(3)」、「教会のあった時とほとんど同じように(4)」その勤めを遂行していきました。
管区長代理をやめたトマース・デ・スマラガ神父は、ホセ神父と交替するために都へ上りました。スマラガ神父の代わりに、アロンソ・ナバレーテ神父が管区長代理に選ばれ、彼はまたメーナ神父を肥前およびその他の地へ派遣し、 数多の成果を挙げました。スマラガ神父は京都から2レーグア離れた伏見市に、修道士がそこへ行ったとき泊まれるように、宿舎として役立つ小さな家を手に入れました。
家康と秀頼の間の戦いは1615年の7月初めに、徳川方の勝利に終わりました。大阪城には数人の司祭・修道士がいましたが、ドミニコ会士は一人もいませんでした。戦乱の後の平和は1616年の夏まで続きました。その期間を宣教師は主として長崎のキリシタンを励ますのに用いましたが、同時に他の土地へも訪れました。1616年の春、ルエダ神父は薩摩領にまで入りました。しかし大阪から逃れた者を取り押さえるために数多の監視が置かれていたので、すぐに戻らなければなりませんでした。その年の4月30日の管区選挙会議は公式にナバレーテ神父を管区長代理として確認しています。
1616年の同じ4月にロザリオの信心に関する特異な現象が起こり(5)、それはそののち重要な意味を持つ事になりました。ロザリオの贖宥に関するある噂や見解の相違のために長崎のドミニコ会士は、真実について明白に説明し知らせなければなりませんでした。彼らは教えの組(コフラディーア)およびその贖宥に関する教勅書を日本の文字と言葉で書き記しました。日本人が真実を知り、この聖なる信心のすぐれていることおよびこの教えの組に与えられている偉大な贖宥を見てからは、この町が極めて強い信心の寄せられる場所となり、ロザリオのこととその聖像を画くこと以外は何も行わないほどであり、聖像を印刷することさえ必要となりました。それはこの信心が市内ばかりではなく、他の地方にまで拡まったからです。修道士は他の土地においてもこの信心の説教を(6)して回りました。
1616年7月に家康が死ぬと、秀忠は江戸と都において改めて迫害を始め、諸大名はそれぞれの領地で将軍に続いて迫害を始めたために、宣教師は姿をかくさなければなりませんでした。スマラガ神父も京都を棄てて長崎へ下だることを余儀なくされました。長崎において1616年12月までは平穏に働くことができましたが、この12月に、大阪の役の後そこから逃れたと噂されている明石内記殿というキリシタン探索のために、中央の幕府から長崎へ使者が2回派遣されました。
これが動機となって、幕府は日本に宣教師のいることを知り、長崎にひとりの宣教師も残さないようにするため、大村の大名(棄教したドン・バルトロメ純頼)にその領地へ帰ることを命じました。純頼はその領内へ1617年4月に戻って、直ちに叔父のエンジロー殿を長崎へ行かせましたが、かくれている宣教師を急襲するために騒ぎを起さず秘かに行かせました。しかしキリシタンはすでに危険を知って宣教師をかくしたので、エンジロー殿はひとりも発見することができませんでした。そののち純頼はこの問題を彼の家老・朝永次郎兵衛に任せましたが、この家老は長崎で主要なキリシタンから「街には宣教師はいない。しかし他日いることが発見されたならば、処罰を受けるであろう」という署名を得たのみでした。
しかしその帰路に諸村を探索して、肥前の喜々津でフランシスコ会士ペドゥロ・デ・ラ・アスンシオン神父を捕えました。1617年4月下旬のことです。5月1日には殿の兵が五島においてイエズス会士ジョアン・バウティスタ・タヴォーラ・マチャードおよび彼の日本人伝道士レオン田中を捕えました。3人は大村の近くの郡の牢に入れられ、1617年5月22日にペドゥロとジョアン・バウティスタ両神父が大村の殿の面前で斬首されました。ドミニコ会士は助かりましたが、それは彼らのうちの2名の(オルファネール神父とおそらくモラーレス神父)が3月にマニラへ行ったように見せかけて沖から戻ったこと、スマラガとルエダ両神父が長崎から他の土地へ移動したこと、メーナ、ホセ・デ・サン・ハシント両神父は巧みに隠れていたなどの理由があってのことです。
ペドゥロ・デ・ラ・アスンシオンおよびマチャード両神父の殉教はキリシタンや棄教者を強く励ましたので、大村へ修道士を派遣するように、ドミニコ会の管区長代理ナバレーデ神父の心を動かしました。しかし、秘跡を授与する問題や霊の救済への努力において、常にこの神父は先頭に立つ人であったから、キリストのために苦しみ死ぬ機会の来た現在、彼は自ら先頭に立つことを希望しました(7)。そのためにナバレーデ神父は自分の友人であるアウグスチヌス会士の管区長代理エルナンド・デ・サン・ホセ・アヤラ神父を招きました。この神父はこの特別な問題のためにナバレーテ神父が彼の長上であるが如く一切の決定をナバレーテ神父に委ねました。ナバレーテ神父は5月25日、従順の宿主ガスパール上田彦次郎とともに大村へ向かいました。長崎から3レーグアの大越に夜到着しました。神父の最後の祝福と秘跡を受けるために、人びとがそこに本能的に集まって来たので、大草へ道をそれました。しかしそこにも人びとが集まって来て、次第にその数が増えていったので、28日の日曜日にミサを戸外で捧げなければならなかったほどです。
29日には大村への乗船場である長与へと向かいました。ここで、捉えられることが確実になったので、修道会の聖服を着、剃髪を現しました。果たしてその日の午後7時頃、燈火をつけた3隻の舟が大村湾に現れ、それで5人の奉行が武装した人々を伴って来ました。彼らはふたりの神父を舟に乗せ、他のキリシタンがいかに頼んでもふたり以外に乗ることを許しませんでした(8)。翌30日の火曜日は大村の手前の小さい島、臼島で夜明けを迎えましたが、そこにも大勢のキリシタンが告解をするために集まって来ました。その中に大村の大名の祖母、1570年に洗礼を受けたドーニャ・マリーア・マグダレーナと、同じ大名の叔母の叔母ドーニャ・マリーアがいました。両神父は臼島から人里離れた雨浦島へ、それから小口島へ移されました。
ここにペドゥロ・デ・ラ・アスンシオンとマチャード両神父の遺体および囚えられたレオン田中が移されて来ました。それによってこの両神父は自らも殺される運命を知りましたが、特に小口から鷹島という小島へ行く途中で、それぞれいずれが自分を殺す刑吏であるかを理解しました。両神父はこのふたりの刑吏をミサの葡萄酒やその他の物でねぎらいました。鷹島で下船する前に奉行はキリシタンでないふりをして来たキリシタンや初めから来ることを許可していた二人を大村へ帰らせ、神父2名とレオン田中を上陸させて、この3人を斬首しました。ナバレーテ神父は一方の手に荒けずりの十字架を、他の手にろうそくとロザリオを持ち、暫く黙想したのち彼自ら刑吏に合図をしました。これは1617年6月1日の事です。ナバレーテ神父の遺体はイエズス会士マチャード神父の棺に、アヤーラ神父はフランシスコ会士ペドゥロ・デ・ラ・アスンシオン神父の棺に入れられました。こうして強く縛り石を付けて海へ投げ棄てられたのです。
注
(1) MENA, Breve relación 1614,c. 7, fol. 125v.
(2) Cfr. ORFANEL, A1 P. Fort, fol. 346.
(3) ORFANEL, Historia, c. ⅩⅩⅤⅢ, fol. 53.
(4) ORFANEL, Relación de 1619, a 1614.
(5) ORFANEL, Relación, 1619; Historia, c. ⅩⅩⅩⅤ.
(6) RUEDA Relación de la Observancia. Fols. 75, 75v, 76.
(7) MORALES, O. P. (Fr. Francisco), Relacion del Glorioso martirio de los Benditos Padres Fr. Alonso Navarrete,Vicario provincial de los Religiosos de Nuestro Padre Santo Domingo de Japón y de Fr. Hernando de S.Joseph,Vicario provincial de la Orden de S. Agustin, también del Japón fol. Iv. (A. P.MSS T. 301). これ以降つねにこの報告を引用する。これはナバレーテ神父の死の時に、ドミニコ会士の上長であったモラーレス神父の署名によって証明されているように、ナバレーテ神父の殉教についての最も基礎的・真実の記録である。
(8) 悲しい別れ、神父たちの乗船の場面が Relacion del P. MORALES, fols. 7, 7v, 8, 8v, 9に生きいきと画かれている。オルファネール神父がこれをHistoria, c.ⅩL, fols. 73-76 にほとんどそのまま写している。
Copyright (C) dominico. All Rights Reserved.