1617年6月1日にはすでに長崎に集まっていたドミニコ会士は、その少し前にナバレーテ神父がフランシスコ・モラーレス神父を後任に指名していたので、彼を管区長代理に選びました。モラーレス神父は前任者の意志を遂行するためにスマラガとルエダ両神父を大村へ派遣しました。彼らは6月12日に長崎を出てナバレーテ神父の殉教の場所でミサを捧げ、殉教者の遺体を海中で探しているキリシタンに諸秘跡を授け、大村のすぐ北にある郡へ行き、そこでフランシスコ会管区長代理アポリナール・フランコ神父に逢いました。両神父はその地方で全力を挙げて働きました。スマラガ神父は「私たちは深い喜びをもって働き、キリシタンには大きな利益をもたらしています。8年、20年も告解をしなかった者がいるし、一般に8年、10年、12年ぶりです。……宣教師がいないために何年も前に棄教した大勢の者が教えに戻りました(1)」と述べています。
7月7日にフランコ神父が彼の日本人協力者とともに捕えられ、スマラガ、ルエダ両神父は大きな危機に直面しましたが、小さな島と陸地を行ったり来たりして仕事を続けることができました。しかし、ついには7月23日、6人の日本人とともにスマラガ神父が襲われ鈴田の新牢に囚えられました。危険を見て、モラーレス神父はルエダ神父を長崎へと呼びました。鈴田に囚えられた人々は使徒として驚くべき仕事を展開しています。彼らは人々に、洗礼を授け、信仰を取り戻させ、教え導き、諸秘跡を授け、霊の上に大きな成果を挙げました(2)。
牢獄の構内に住んでいる牢番は知らないふりをしていましたが、おそらくそれは信仰を取り戻した家老リノ朝永次郎兵衛にそのように言われていたからでしょう。殿はこの逮捕を報告するために、そのとき将軍のいる伏見へと赴きました。こうして2カ月たった時に、殿の地位の高い一家臣が武装した兵を伴い牢獄を襲ってキリシタンを追い払い、囲みを2重にして牢番を囲みの外に出しました、牢獄へ行く道を変えて監視所の前を通るようにしました。10月半ばに殿が帰って来ると、ますます酷しくし、身分の高い家臣を何人か殺しましたが、その中にはリノ朝永も含まれています。さらに12月26日、牢内を検査しキリシタン関係の書物を一掃しました。しかし囚われ人は御降誕の祝日のミサに必要な品はすでに準備して隠していました。10月1日に長崎港の入口の小島・高鉾において、ナバレーテ神父とアヤーラ神父を、それぞれ何年も泊めていた理由で、ガスパール上田彦次郎とアンドゥレース吉田が斬首されました(3)。
捕えられていないドミニコ会士は、長崎およびその他の土地のキリシタンの間で仕事を続けていました。とくに1618年の2月と3月にはファン・デ・ルエダ神父が天草およびその他の地方において多数の棄教者を信仰に立ち戻らせていちじるしい成果を見せ(4)ていました。ファン・デ・ルエダ神父は天草から長崎へ戻っていましたが、非常に疲れていて、もう彼の体は役に立たなくなってしまったのではないかと思われるほどでした(5)。
マニラにおいては聖ロザリオ管区が新しく朝鮮の布教を計画していたが、これが日本の出来事に影響を与えました。豊臣秀吉の戦役に巻き込まれて、フィリピンの首都に行った朝鮮の一青年がキリシタンに改宗したのです。朝鮮の重要な人物である青年の父親は息子に戻るように命じました。青年は彼の国に布教の道を開くため数人のドミニコ会士を連れて行くようにすることができました(6)。これらの神父はフアン・バウティスタ・カーノ、ファン・デ・サント・ドミンゴ・マルティーネスおよびディエゴ・デ・リバベリョーサです。日本の布教のためにアンジェロ・フェレール・オルスッチ神父が加えられました。彼らは1618年7月16日にマニラを出て、8月13日に他の修道会士とともに日本へ到着しました。日本ではすでに朝鮮行きの旅費まで用意してありました。しかし長崎の日本人保証人のひとりがその保証を取り止めたので、朝鮮布教計画は潰えてしまいました。カーノ、リバベリョーサ両神父は再びマニラへ帰る方を選びましたが、ファン・デ・サント・ドミンゴ神父はモラーレス神父の懇請で日本の布教に残ることになりました(7)。
日本の出来事はキリシタンとかくれている宣教師の事情をますます複雑にしていきました。1617年の終わりに、長崎代官・末次平蔵が同じ身分の人々および長崎奉行・長谷川権六とともに、長崎地方における将軍の財産管理の不正行為を理由にアントニオ村山当安を幕府に訴えました。当安は1618年2月7日に罷免されました。当安が1618年初めに反論したので、平蔵は幾つかの新しい罪で彼を訴えました。その罪の中に、彼がキリシタンであることを表明したこと、すなわち「幕府に対する反逆の頭として」キリスト教禁止の命令に違反した件がありました。平蔵は彼が1614年5月の聖行列に介入したことを申し立てたのです。当安はすべてそれらを巧みに弁明しました。しかし宣教師をかくまった件になると、平蔵は幕府に対して(事実は彼がキリシタンであるのに)そうではないと表明しましたが、当安は信仰を否定することを欲せず、「キリシタンであることより宣教師をかくまったことによって」息子たちとともに有罪を宣告されました。当安は追放され、平蔵は長崎代官として戻りました。
平蔵が勝利を得て長崎に帰ったのは1618年10月末でした。そのとき、3人のキリシタン、アンドゥレーヌ、サンチョ・シンゾーおよびファン・ノデラ・イヒョーエも長崎に戻りました。1614年11月6日にマニラへ向かった村山当安の船の主要な船員であったこの3人は11月25日にその家族とともに焼き殺されました。
11月、末次平蔵と奉行・長谷川権六が長崎へ帰ったときに言った言葉によると、彼らは「長崎に神父が全くいないようにせよ。ひとりでもいることが判明したならば権六は斬首、平蔵は磔に処す」という将軍の命令をもって来たようです。実際に彼らは宣教師の探索に努力しました。1618年12月13日に、朝鮮人コスメ竹村の家で日本語を学んでいたファン・デ・サント・ドミンゴおよびアンジェロ・デレール・オルスッチ両神父が捕えられました。彼らの伝道師トマース(後の修学修士フライ・トマース・デル・ロサリオ)料理人ファン(後の助修士ドミンゴ・デル・ロサリオ)も捕えられました。彼らはイエズス会士カルロス・スピノラ神父およびアンブロシオ・エルナンデス修士といっしょに鈴田の牢獄へ連れて行かれました。他の7人の日本人も、捕えられた者の隣人という理由で投獄されました(8)。
その後、「いかなる者も宣教師を泊めてはならぬ。違反者は家族とともに火刑に処す」という布令が出されました。初めはクルス町の広場に、銀30枚および「この銀は盗賊あるいは放火犯を発見した者に与える」と書かれた板が掲示されていましたが、その後に「あるいは宣教師」という文字が加えられました。夜間はロザリオの組の会員でパブロ・クロギというキリシタンがこの銀を保管していましたが、布令の中に「あるいは宣教師」という語が加えられたのを見ると、銀の保管を拒絶して1619年1月20日に投獄されました。しかし彼は数ヶ月後に釈放されています。
こうした状況にもかかわらず、長崎のキリシタンはよくその信仰を守り続けていました。しかしその中に何人かの裏切者がいたのです。そのひとり、ジョアン鎖という若い男が迫害者たちを長崎のジョアン・ショーウン・ショーザエモンの家に案内しました。彼らは裏門から押し入って、四旬節の食事を取っていたイエズス会のアロンソ・デ・メーナ神父を捕えました。1619年3月14日の木曜日のことです。彼は腕と手を縛られて、その町の他の4人のキリシタンとともに奉行所へ連れて行かれました。役人は翌日メーナ神父の下僕に拷問を加えて、他ならぬアンドゥレース村山トクアンの屋敷にフランシスコ・モラーレス神父が泊っていることを知りました。先ずフランシスコ・モラーレス神父を、少し後に初め留守であったトクアンを捕え、おなじく腕と手を縛って、この著名な人々に同行し、あるいはお別れするために出て来た夥しい人びとの中を、真昼間奉行所へ連れて行きました。そして奉行所においてなおも堅く縛られているメーナ神父に逢いました。3人をそこに10日ほど置いて、3月27日の枝の日曜日にトクアンを一軒の家に監禁してこれを牢獄とし、モラーレスとメーナ両神父を壱岐島の牢へ入れるために引き出しました。その理由は、長崎奉行代表者は神父たちの責任者になりたくなかったからです。
捕われた人々は3月27日の聖木曜日に壱岐島に着いて、4月3日まで奉行の屋敷で待っていました。その間に牢獄が造られて、そこへ4月4日に入れられました。その間中モラーレス神父は異教徒と有名な論争を行って、それについて立派な報告をわれわれに遺しています(9)。1619年8月7日までの5カ月間この牢にいて、それから大村領鈴田の牢獄に移されました。メーナ神父は壱岐島にいるとき病気でしたが、鈴田に行ってから1週間目に発作に襲われ、長崎に薬を求めなければなりませんでした。8月10日すなわちモラーレス神父とメーナ神父が鈴田の牢に入る1日前に、この牢に日本人司祭トーマス荒木神父が入って来ました。
長崎においては、ドミニコ会士はルエダ神父、ホセ・デ・サン・ハシント神父、オルファネール神父が未だ捕えられずにいました。彼らにとって大きな喜びとなったのは、1619年7月にディエゴ・コリャード神父が宣教師の立派な一員として到着したことでした。彼について、オルファネール神父は管区長メルチョール・マンサーノ神父宛に1620年3月20日付で次のように書いています。 「言葉の習得においてすでに非常に進歩し、あらゆる種類の人の告解を聴くことができました。このような速い進歩から見ると、もし私たちが生きているならば、間もなく私をうしろに置いて行ってしまうように思われます」。
鈴田では大きな変化がありました。1619年3月19日にドミニコ会士ファン・デ・サント・ドミンゴ神父が肉体的・精神的苦しみのために亡くなったのです。捕われた人々は、1619年7月21日から8月7日まで、玖腹の町の近くの臨時の牢に移されました。その間に前の場所に壁も天井もない吹き晒しの牢が彼らのために造られたのです。8月7日にここに初めて入れられて、それ以降は彼らに食事、衣類、医薬その他のいかなる慰めも全く与えないようにされました。1619年の8月29日には8人の修道者と司祭トーマス荒木および9人の日本人が狭い牢にいました。それにもかかわらず1619年9月の中旬に、奉行・長谷川権六はポルトガル人やスペイン人が宣教師を援助することを許し、実際にポルトガル人の中に非常によく援助した者がいます。しかしこの援助も同年の御降誕の祝日まで許されたのみで、再び元に戻りました。それでもマニラの知人その他の金銭的援助が秘かに続くのでした。鈴田の宣教師たちはその牢居の中において、書簡や自らの模範により広範囲に使徒としての使命を遂行していました。長崎地方における数多くの殉教は、全面的にあるいは少なくともその1部分において鈴田の捕われ人の影響によるものに違いありません。
ポルトガル人に対するこの許可は、奉行が首都・江戸へ出発するときに与えられたものでした。彼はキリシタンの問題の特別証人として司祭・荒木を伴って行いました。その報告の結果は、トクアン(ドミニコ会モラーレス神父の宿主)、コスメ竹村(オルスッチ神父とファン・デ・サント・ドミンゴ神父の宿主)およびジョアン・ショーウン(メーナ神父の宿主)、イエズス会の一修道士とポルトガル人宿主に対する死の宣告、緩慢な火で焼き殺すという宣告でした。それは1619年11月18日のことでした。
同じ月の27日には他の11人の人々が斬首されました。(オルスッチ神父とファン・デ・サント・ドミンゴ神父の捕えられた町の6人、メーナ神父のいた町の4人、平戸の貴人の出身でモラーレス神父のいた町のトマース籠手田)。
秀忠は都の所司代・板倉勝重に当安の息子、忠安ジョアン、パブロ、ペドゥロの処刑を命じました。これらはみな当安の息子で、都に居住していた者です。
1619年の12月1日、当安を首都で斬首させました。この日から1622年9月10日までの間に、当安の他の息子たち、孫、親戚が処刑されました(10)。
1619年の御降誕の祝日の前に民部殿と呼ばれる不幸な殿ドン・バルトロメ純頼が、城中のすべての人々の心を痛ませるほどの恐ろしい苦しみで亡くなりました。叔母のドーニャ・マリーナは殿の死に際しての人々の心の状態を利用して、オルスッチ神父を城内に招きました。彼は城内にいる人々の告解を聴き、城中においても首都・大村においてもよく働いたので、ついに疲労で健康を害し、養生のために長崎へ来ることが必要であったほどです。何年も前から、城内や首都・大村へ入ったのはこれが初めてであり、これによって扉が開かれこののち入って来るようになりました。
1630年が始まりましたが、それは長崎にとって悲しく忘れられない年となりました。残っていた小さな教会(ミセリコルディア、サン・ミゲール、サン・ロレンソ、トドス・ロス・サントスおよび浦上のサンタ・クララの諸教会)が2月には取毀しが終わり、市内の3つの墓地(ミセリコルディア、サンタ・クルースおよびサンタ・マリーアの諸墓地)の遺体は掘り出されて市外のサン・ミゲール墓地に移されました。また市内の病院から癩患者を追い出してその建物を焼き、400人のあわれな人びとから住む家を奪ったのです(11)。教会の跡にはキリシタンである代官、祝福の平蔵が教会およびサンタ・マリーア教会の神父たちの修院の木材で彼の屋敷を造り、御聖体を置いた場所に彼自ら住むことにしました。この地方の殉教者たちに棄教を勧め、神父達を探索したのも、彼が行った事です。「これは確かに最期の審判のひとつの場面である」(12)とまで言われました。しかしキリシタンはこれらのことや多くの殉教によって恐怖心を抱くことなく―神の瀝青の火のごとく、彼らの信仰はますます燃え上がり、励まされました(13)。こうしてキリシタンはホセ・デ・サン・ハシント神父に、長崎から何レーグアも離れた諸地方に修道士を送ってくれるように求め、神父は1620年4月にオルファネール神父とコリャード神父を派遣し、この両者は大村領内をたびたび歩いて、霊のために著しい成果を挙げました。ルエダ神父は病気のため3月に日本を去り、日本宣教地区の会計(ブロクラドール)という資格をもってマニラへと帰りました。
1620年8月4日、オランダ人の舟がドミニコ会士ペドゥロ・デ・スニガ神父とルイス・フローレス神父を、ホアキン・ディーアス平山というキリシタンの日本船の中に監禁して連れて来ました。この日本船は6月4日にマニラを出帆し7月22日に英国の海賊の手中に落ち、オランダ人に引き渡されました。オランダ人はこれを平戸へ導いて来ましたが、平山の船に乗っている者の言葉によれば、その船に乗っている4人のスペイン人のうちふたりはカトリックの司祭であるから、これを平戸で証明しようと期待していたのです。もしそうなれば日本の政府から賞金を受けることができるからです。長崎のキリシタンはアグスティヌス会のバルトロメ・グティエーレス神父に命ぜられて、2隻の舟で両神父を救い出しに行ったが、すでに地下牢に入れられてしまっていたので、どうすることもできませんでした。その後ホセ・デ・サン・ハシント神父によって組織された他の1組が同じことを計画しました。グティエーレス神父に勧められて、スペイン人アルバロ・ムニョースが行き、1620年10月11日にはオランダ人のフランシスコ会士リカルド・デ・サンタ・アナ神父が向いました。さらにその後になって日本人キリシタンや修道士の勧めで管区代理・ホセ・デ・サン・ハシント神父が訪れました。しかしいずれも当初の目的を達することは叶いませんでした。
1621年11月中旬、ついにスニガ神父に対する厳粛な訊問手続きが取られ、ポルトガル人やスペイン人、それに鈴田の囚われ人までも証人として呼びされました。その中にはモラーレス神父の姿も見出されます。11月30日スニガ神父は万事窮して身分を自白し、フローレス神父と他のふたりのスペイン人のみが牢獄に残りました。
1620年9月、牢獄に囚えられている人々全員が殺される、という噂が長崎に流れました。サント・ドミンゴ修道院の諸神父がこの知らせを聞くと、そのひとりは夜間スペイン人の俗服で変装し非常に苦心して、彼らの告解を聴き殉教を励ましに行きました。また、信仰のために囚われたのではない囚人の告解も聴きました。
この御降誕の祝日(1620年)以後、長崎市内外において司祭探索のために多大な労力が費やされました。それにもかかわらず、神の御恵みにより市の大多数の人々は善良で、いかに迫害が苛酷であっても、注意深く宣教師を探し出して自分の家へ連れて行き、告解をさせるために人々を秘かに家へと迎え入れました。穴に隠れなければならないような特別に酷しい探索の行われる日でなければ、宣教師はふだん非常に忙しかった様です。それ故、町には活気と信心が維持されていました。ドミニコ会およびサン・フランシスコ会の修道士はとくにこの仕事をよく遂行していました。それは彼らが町のキリシタン役人をことごとく味方にしていたからです。夜はいつでも自由に司祭の仕事に行くことができましたし、役人が彼らを伴って行って、町の門が閉まった後にもこれを開くし、庄屋までが味方であって司牧に必要な時には牢獄に入れてくれたのです(14)。この記録は、当時の長崎の事情や、宣教師がいかに働いていたかということをよく表しています。
この時期にドミニコ会士が長崎とその周辺の地方を交互に世話していたことは明らかです。たとえばコリャード神父は1621年の初めに有馬にいって、有馬の殿の身分の高い家来である武士ふたりに洗礼を授けました。そのひとりは奉行有馬でした。2月に長崎へ戻る際に古賀(有馬)で彼はオルファネール神父に会いました。オルファネール神父はそこで、今日私達も目にする事の出来る教会史を完成させていました。コリャード神父はオルファネール神父とともに2、3日そこに留まり、福音の仕事に関する懸念を訊ね相談し、すでにそのとき発表されていた全贖宥のため、その地方のキリシタンに告解・聖体の秘跡を授けるのを手伝っていました。2月14日にコリャード神父はオルファネール神父と別れて長崎へ出発し、長崎で3月下旬まで管区長代理ホセ・デ・サン・ハシント神父を援助しました。
オルファネール神父はキリシタンに呼ばれ2月28日(彼のHistoria には1621年3月17日となっています)に大村へ行って、そこで4月20日まで働きました。4月30日の新管区長代理選挙のため4月20日には長崎へ出発しなければならなかったからです。途中でキリシタンに諸秘跡を授け、矢上(長崎から半レーグア)に到着して2、3日滞在し、4月25日に彼の伝道士(カテキスタ)ドミンゴ・タンバとともに捕えられ、夥しい群衆(彼がよく知られていたから)の中を長崎奉行所へ連れて行かれ、そこから長与を通って鈴田へ送られました。キリシタンの求めで長崎から郡へ行っていたコリャード神父は4月26日朝、帰路長与を通るとき夜明けに、オルファネール神父の逮捕を知り、すぐ近くの百姓家で彼自らの眼で、オルファネール神父が手を縛られて鈴田への道を連れて行かれるのを見ました。コリャード神父は長崎への道中を続けました。
1621年2月に鈴田の牢内で日本人をドミニコ会士として受けいれることが始められました。その第一の者はマンシオという者で、マンシオ・デ・サント・トーマスという名で修学修士になりました。そののち3月と4月にイエズス会やフランシスコ会も日本人を会員に迎え、ドミニコ会士はさらにふたり、トマース・デル・ロサリオを修学修士として、ドミンゴ・デル・ロサリオ(以前はファン、俗に小ファンと呼ばれていた)を助修士として迎えました。
オルファネール神父の逮捕によって、キリシタンはもう宣教師を自分の家に迎え得ないのではないか、ということが心配されました。しかし実際には反対の事態が生じました。すなわち新しい「鉱山」と名付けた家庭を宣教師のかくれ家として利用し、人々は今まで全くしたことがないのに、それからはいかなる機会にも、病気であってもなくても、危険であろうとなかろうと宣教師に自分の家を提供したのです。(コリャード神父は「とくにドミニコ会の修道士を世話することを義務と考えていた」と述べています)。
彼らは霊的必要の場合にだれよりも先に自分の霊の援助をしてもらうことを唯一の条件として、宣教師に家を提供したのでした。これらの申出者の表が作られてこれが18人にまでなりましたが、中断しなければなりませんでした。それは申し出が続いた事で、その数が多くなり、混乱を来たしたからです。また、これらの信仰の英雄は次第に捕えられていきました。
7月には管区長代理ホセ・デ・サン・ハシント神父は大村で働くために長崎を出ました。しかし7月22日にふたりの新しい修道士、ペドゥロ・デ・サンタ・カタリーナ・バスケス神父とドミンゴ・カステリェトゥ神父が長崎に到着したので、長崎に戻らなければなりませんでした。この両神父は、修道士であるという噂が拡まっていたために、10月までは隠れることができないので、商人を装っていなければなりませんでした。
1621年8月15日の聖母被昇天の祝日が近づいて、ホセ・デ・サン・ハシント神父は18名の署名者のひとり、パブロ田中およびその他の近所の人びとに秘跡を授けに行きました。しかし、17日の朝、伝道師アレーホ・シュンボ、宿主および近隣の人々とともに捕らえられ、簡単な奉行所の取調べの後、神父とアレーホは鈴田の牢へ送られ、その他のキリシタンは長崎の牢に入れられました。
この逮捕が動機となって、囚えられている長崎のキリシタンを殺そうとしている、という噂が伝わりました。そのためコリャード神父はその人々の妻子の告解を聴き秘跡を授けましたが、牢の周囲は夜間はとげ(鋭い矢来のようなもの)で囲まれているということを聞いたので、昼間スペイン人の通常の服で変装して牢へ行き、キリシタンに殉教の準備をさせたのです。鈴田の牢内の修道士、とくにドミニコ会士ホセ・デ・サン・ハシント神父は長崎の捕われ人に対して極めて感動的な書簡を送っています。
1621年半ば、長崎において仏寺建立の義務が科されるという問題が起きました。ドミニコ会士はそれには従えないと答えました。しかし、後になって、少なくとも一部の裕福で臆病な人々は、その決心を変えました。この人々は、他の修道会の神父たちが日本人が仏壇と称している主祭壇とその天井を造るのでなければ、応じてもよいと言ったと説明したのです。それでホセ・デ・サン・ハシント神父は鈴田の牢内から再び書簡を書いて(15)、もし神に仕えることを希望するならば、悪魔に奉仕してはならないと伝えました。
1621年10月21日にコリャード神父はバスケスとカステリュェトゥ両神父を有馬領に隠すことができ、それで両名は日本語を学び始めることができました。一方コリャード神父は11月と12月の間、その領内で働きました。長崎・有馬・大村その他の土地においてコリャード神父やドミニコ会の教えの組に対して悪い噂(ロザリオの組とイエズスの組の相違)が拡められたのもこの時期です。その問題がキリシタンの心を動かして長崎・大村・有馬においてそれぞれ別に文章を作成させるに至りました。これはドミニコ会士がいかによく働いたかという事をよく表し、その当時すでによく知られていたし見ることのできた事実に関する証拠が挙げられています(16)。長崎で書かれた文章は、当時いた何千という教えの組の人びとの代表者102名によって署名されていますが、その人々の多くは町の乙名や名誉・地位のある人々でした。その文章はその時の管区長代理ディエゴ・コリャード神父に渡されました。
1620年8月の出来ごとで述べたように、アグスティヌス会士ペドゥロ・デ・スニガ神父は宣教師であることを自白した時、ルイス・フローレス神父の救出をコリャード神父に依頼しました。それは、コリャード神父は日本ではだれにも解らないフィリピンのカガヤン語でフローレス神父と話す事ができるからでした。こうしてコリャード神父はまたこの件についても努力することに決め、1621年1月の半ばに、平戸へ行くことを申し出た人々を見付けました。彼らは実際に1622年1月に平戸に到着しましたが、神父を救い出す勇気がなく、戻って来てしまいました。ルイス称吉(30歳)という者を長とする別の一行が平戸へ行って、前もってフローレス神父と打ち合わせてこの件を検討もしました。もし捕えられた場合にはコリャード神父は長崎へ戻り、フローレス神父は殉教者として死ぬために宣教師であることを表明するという条件で、救出を実行したのです。その結果は、幾つかの不運の出来事の後、フローレス神父は弥吉の舟まで逃げたけれど、少しずつ追いつめられて捕えられ、前もっての打ち合わせどおり宣教師であることを自白するに至りました。こうして彼の伴侶、スニガ神父とともに壱岐島に囚えられました。1622年3月5日の事でした。
7月29日に長崎奉行長谷川権六は、ホアキン平山の船で来た者全員に対する死刑の宣告を江戸からもたらして、身元引受人の保証で釈放されて長崎にいた人々を呼び出して刑を宣告し投獄しました。ホアキン平山およびスニガとフローレス両神父は8月17日に長崎へ連れて来られました。3月4日にフローレス神父を救い出そうとした5人も平戸からもやって来ました。牢に囚えられていた平戸の船の16人のうち、12名のみが平山およびスニガ、フローレス両神父とともに殉教の場所(立山の傾斜面)へ連れて行かれ、そこで殺されました。12名は囲みの中に入った順に斬首され、前に入っていた3人の前に倒れていきました。平山と両神父は時間を掛けて火で焼き殺されました。1622年8月19日のことです(17)。
コリャード、バスケス、カステリェトゥ諸神父はそれらの15名が殺されるという噂が伝わってから、すなわち7月下旬から、釈放されたままで長崎にいる人々および牢内にいる人々の死の準備をするのに忙しくなりました。それはオルファネール Historia の第68章の補遺の中でコリャード神父自ら詳しく述べています。
奉行・長谷川権六はまた7月29日に江戸から長崎および近隣の地方(大村・矢上)に囚えられている人びと全員に対する死の宣告を携えてやって来ました。これは直ちに自由の身、捕われの身を問わずキリシタンと宣教師の間に知れ渡りました。それでコリャード神父は矢上と長崎に囚えられている人々およびその家族、(同じ町の)関係者その他の人々に死の準備をさせるため疲れを知らずに働き続けました。9月7日・8日にはすでにほとんど全員の告解を聴き秘跡を授けました。まさしくその翌日、9月9日に奉行は誰をどこでいかなる方法で処刑するかを審議し、次のように決定しました。キリシタンは捕えられたところで処刑する(長崎で逮捕された者は長崎で、大村は大村で、矢上は矢上で)。宣教師、その宿主およびその隣人、その妻子は牢に囚えられている者もそうでない者もこれを死刑にする。宣教師と指導者(伝道士、宿主その他)は緩慢な火で焼き殺し、その他の者は斬首にする。長崎にいる者は33人、鈴田にいる者は24人、計57人は長崎で処刑されることになりました。そのほかに矢上に5人、大村に8人残っていましたが、これはそれぞれの地で処刑される事になりました。9月9日、長崎で身元引受人にあずけられていた人々が裁判に呼び出され、刑が宣告され、他の有罪人とともに投獄されました。鈴田の24人はその日牢から出て長与までは舟で、長与からは馬に乗り、その夜は長崎の近くの浦上で眠りました。
彼らは翌日殉教の場所の入口に、静かに歌いながら到着しましたが、それは「死ぬために来た者というよりは、天使の合唱のように見えた」(18)と報告されています。長崎から来る33名の人々を1時間ほど待たなければなりませんでしたが、彼らはその間、キリシタンや知人およびこの光景を見ようとして山の長い斜面やとくに舟に乗って近くの海に集まった群衆とお別れをするための時間として過ごしました。長崎の33人の先頭にマリーア村山(1619年11月18日に焼き殺されたあの偉大なアンドゥレーヌ村山トクアンの妻)が来ました。皆が到着すると57人のうち32人は直ちに斬首され、25人は緩慢な火で焼き殺され、フランシスコ・モラーレス、アロンソ・デ・メーナ、ホセ・デ・サン・ハシント・サルバネース、ハシント・オルファネール、およびアンジェロ・フェレール・オルスッチ諸神父は焼き殺されました。その他の殉教者のうち31名は特にドミニコ会士と関係の深いロザリオの組の会員でした。
続いて9月12日、大村において鈴田の牢に残っていた8人が焼き殺されました。そのうちのひとりはドミニコ会士トマース・デル・エスピリトゥ・サント・スマラガ神父でもうひとりは同じくドミニコ会の修学修士マンシオ・デ・サント・トマースでした。矢上の5人、ドミニコ会士ハシント・オルファネール神父の宿主たち(マティアース・マタエモン、妻マリーア、息子ドミンゴ及びミゲール、同じくマリーアという母)は、男は焼かれ、女は斬首されて9月23日に殉教しました。こうして栄光ある3組の人々の牢居は終わったのです(19)。
注
(1) ZUMARRAGA, Carta al P. Provincial, 29 de agosto de 1619(A. P., MSS., T. 19, fol. 252),これは鈴田の牢獄に関する主要な諸資料の基になった書簡である。
(2) ZUMARRAGA, 1. c.
(3) MORALES (F.), O. P., De algunos Mártires ……fols. 313-316 (A. P., MSS., T. 301).
(4) ORFANEL, Relación de 1619.
(5) ORFANEL, Historia……, c. LⅦ
(6) OCIO, Reseña, p. 65, nota 6.
(7) FERRER ORSUCCI (A.)., O.P., Al P. Jerónimo de Belén, Nagasaki, 19 de octubre 1618 (A. P., MSS., T. 19, fol.322).
(8) ORFANEL, Historia…c. XLⅦ.
(9) MORALES (f.)., O.P., De alguras disputas que hubo con los gentiles (A. P., MSS., T.301).
(10) JOSE DE S. JACINTO, Carta citada; ORFANEL, Historia…, cc. LⅣ, LⅥ.
(11) SCHUTTE, o.c., (n. 32), pars Ⅱ, c.3 Ⅳ, pp. 746-747.
(12) ORFANEL, Historia …, c.LⅤ.
(13) ORFANEL, Al P. Melchor …,20 de marzo, 1620, fol. 350.
(14) ORFANEL, Historia…, c. LⅤⅡ
(15) COLLADO, Ⅰb., PAGES, o. c., 65, bis; MASETTI, Ib., p. 58.
(16) COLLADO, Ib., c. LⅩⅤ.
(17) フローレス神父の逮捕に関してコリャード神父が報告を書いている。少なくともその署名は自筆のものであり、それはマニラのドミニコ会古文書館に保存されている(T. 301, 33-52).同じ神父の殉教に関してはカルテリェトゥ神父が別の報告を書いている。(A.P.,1. c.)それはコリャード神父によってSuplemento…,c. LⅩⅧ.の中に写されている。
(18) COLLADO, Suplemento…,c. LⅩⅠⅩ.
(19) O. s. c
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