Convento de San José
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聖ドミニコ修道会ロザリオの聖母管区四百年史(1587-1987)

インドシナ半島における宣教

インドシナ半島は中国大陸の南部に位置し、当時は5つの古い王国、トンキン、アンナン、カンボジア、コーチンシナ、ラオスからなっていた。

1595年、カンボジア王チェイ・チェッタがフィリピン総督ルイス・ペレス・ダスマリーニァスに国内外の敵と闘うために援軍を、またキリスト教を広めるために3名の修道士を派遣してくれるように求めてきた。総督の要請に答えて、アロンソ・ヒメネス管区長はディエゴ・アドワルテ神父とフアン・バウチスタ・デサ修道士を伴って遠征隊に参加した。嵐に遭遇したりしたが、無事にメコン河口にあるカンボジアの首都についた。王位継承をめぐる政変に巻き込まれて宣教師たちは捕虜になり、2年後マニラに帰ってきたが、宣教の試みは失敗に終わった。その後、1598年、1603年、1628年の3回にわたってカンボジアへの宣教を試みたが、すべて長続きはせず、1人の日本人キリシタンの娘に洗礼を授けただけであった。

カンボジアに代わってトンキン、現在のベトナムで、1672年にドミニコ会の宣教が始まった。1人のアンナン人司祭がマニラ・ビノンド地区に住む中国人からアモイの方言を勉強するためにやってきた。この司祭を通じてトンキンの司教たちは至聖ロザリオ管区に数名の宣教師を派遣Lてくれるように要請してきた。

トンキンにおけるカトリック宣教開始は1627年にさかのぼる。ヴィン・ト王の招きでトンキンに入ったイエズス会士アレハンドロ・ローデス神父は3年間滞在して福音を述べ伝えた。その後、1645年までコーチンシナで宣教した。この2王国で宣教する許可と援助を教皇に願うためにローマへ行くが、ボルトガルが教皇アレクサンデル六世の勅書を理由にして反対した。神父は志を果たすことなく、1660年、聖徳の香りを残してペルシャで死亡した。しかし教皇アレクサンデル七世によって彼の望みは実現した。教皇はフランシスコ・パルュをトンキン司教に、ペドロ・デ・ラ・モテ・ランバルをコーチンシナ司教に任命し、さらにトンキンを東部と西部の2教区に分け、それぞれにフランシスコ・デイディエル司教、サンチャゴ・デ・ブルグェス司教を任命して、この2王国における宣教を積極的に援助し、推進していくことになった。

1674年、管区はトンキンのために6名の宣教師を派遣するように準備したが、ポルトガルの反対で計画が挫折した。その頃マニラにやってきたパルュ司教との話し合いで密かに2人の宣教師をトンキンに潜入させることになった。そして、トンキンにおけるドミニコ会宣教の光栄ある創始者に選ばれたのはサント・トマス大学教授のフアン・デ・アルフォナ神父とフアン・デ・サンタクルス神父であった。2人は小さな中国船に乗り、バタビア経由で誰にも気ずかれずにナム・ディン省トルン・リン村に潜入できた。こうして3世紀にわたる至聖ロザリオ管区のトンキン宣教の歴史は開始されたのであった。

ドミニコ会士たちは司教から4つの省での宣教を任された。これらの地方には既にイエズス会宣教師から受洗した信者のグループがいくつか存在していた。1677年にディオニシオ・モラーレス神父が2人に合流した。3人が宣教を始めるにあたって、まず注意深く研究したことは中国で大問題となったキリスト教の土着化の問題であった。なぜならトンキンは何世紀にもわたって中国の文化伝統、風俗習慣を受けいれて来たからである。また、3人は数少ない宣教師がこのような広大な地域で宣教するにはどうすべきかを考え、現代風にいえば信徒使徒職活動の組織化を推進することに決定した。地域別に信徒共同体を編成し、草ぶきの小聖堂を建て、伝道士の指導のもとに祈り、教理の勉強、信心書の朗読、小聖堂の管理が行われた。また伝道士は病人を見舞い、臨終の信徒がいる場合は神父に連絡することになっていた。神父たちは年に2回、春と秋に各地を巡回し、ゆるしの秘跡を授けたりミサを捧げ、準備のできた求道者には洗礼を授け、新受洗者にはより深い教理を教えた。この方法によってトンキンでは信徒の数が急速に増加していった。この3人のドミニコ会士が始めた宣教法は後に歴代の教皇によって推賞されたものである。

1680年、19世紀半ばまで続くキリスト教迫害の端緒となる出来事がおこった。司教たちに雇われていた1人の召使いが数名の外国人が潜入していることをナム・ディン省総督に密告した。数日後、アルフォナとモラーレスの2人の神父が総督によって逮捕されたが、身代金を支払って自由になった。しかし、携行していた祭服やミサの道具で2人がカトリック司祭であることが判明してしまったのである。この地の宣教全体が危機に直面するのを心配した司教たちは2人に官憲にたいして身分を隠す ことをやめるように忠告した。再び逮捕され、監禁、飢餓、数カ月の足かせ刑に服してのち、国外に永久追放の宣告を受けた。2人はヨーロッパに向かうオランダ船に乗せられ、トンキンに別れを告げた。

ドミニコ会の宣教にとってもう1つの危機が生じた。それはデイディエル司教がドミニコ会士に絶対服従を要求し、宣教地を担当する修道会を毎年異なるものに変えようとしたことである。このような理不尽なやり方に抗議して、神父たちは一時期宣教地を出てシャムへ移動した。シャムの司教のとりなしで、デイディエル司教が教皇クレメンス八世から受けていた修道者をも司教の権限下に従わせる許可を取り消すことになったので、神父たちはもとの宣教地に帰ってきた。1690年、この地方の信徒の数は1万8千人になった。この豊かな宣教の実りに大きな喜びを感じた管区は出来るかぎりの援助をし、聖座も、1698年、デイディエル司教の後任としてドミニコ会士ライムンド・レゾリ神父を司教に任命して、この喜びを示したのである。彼は1702年に司教祝聖式を受けた。

この翌年、棄教した中国人がナム・ディン省総督に密告したことや、西部トンキン教区で司教やイエズス会宣教師と争い、破門されたアンナン人司祭が反キリスト教的な書籍を出したことが原因で迫害が起こった。しかし、国王はナム・ディン省総督に事実を確める指示を出しただけで、大事には至らなかった。この試練の時期にレゾリ司教が亡くなり、その後任司教にトンキン最初のドミニコ会宣教師サンタクルス神父が任命された。

1711年から1714年にかけて国王アン・ヴーオンの命令で全国的な追害が始まった。教会堂を破壊し、十字架、聖像、書籍、祭具類は公の場所で焼却し、すべての宣教師は首都に連行することが命じられ、宣教師の居所を知らせる者には懸賞金が出された。信徒に対しては棄教して偶像礼拝することが強制され、従わない者には罰金刑と「ポルトガルの宗教の信奉者」という文字が額に焼き印された。そして国王の命令が実行され、管区の宣教地においても174の教会が焼き払われ、304名の信徒の額に信仰の証しとなるあの文字が焼き付けられたのである。その後も迫害は寄せては返す波のようにやってきた。1737年の迫害では6名のイエズス会士の殉教、1745年にはトンキンにおいてドミニコ会士最初の殉教者、福者フェデリチとリシニアナが血による信仰の証しをした。

至聖ロザリオ管区は絶えずトンキンに宣教師を派遣してきたが、18世紀半ば頃よりトンキン人ドミニコ会士の養成を始めた。1738年にはスペイン王フェリペ五世によってマニラのサント・トマス大学とレトラン・カレッジで勉強する12名の奨学金が与えられたので、優秀なトンキン人のドミニコ会志願者をマニラに送ることが出来た。それで、1882年までに137名のトンキン人ドミニコ会士が育ったのである。

一時の平穏の後、1765年、国王は再び迫害の勅令を出した。1773年、カスタニェダ神父とトンキン人ドミニコ会上リエム神父が殉教、1777年に伝道士マヌエル・トリエが殉教した。

しばらくの間、国内は王位継承問題で、内戦が続いた。暗殺された王の第2王子ニェン・アンはラサリスト会宣教地区のピノー司教の取り次ぎでフランス国王ルイ十六世に面会し、援軍を要請した。フランス革命のために計画の実現が遅れたものの、1802年、ニェン・アシはフランスの援助でコーチンシナとトンキンの国王となった。こうした中で1779年にまた迫害令が出され、キリスト教は偽りの宗教で孔子の教えに逆らうものとして禁止され、アロンソ司教とその補佐司教であったイグナシオが殉教するのであった。

新国王となったニェン・アンはキリスト教に対して寛容政策をとったが、その後を継いだミン・メン国王は1830年から1864年にかけて「殉教者の時代」と呼ばれるほどのきびしい迫害の口火をきった。管区が迫害によって減少する宣教師の数を補うために派遣された宣教師が次から次へと殉教していった。ドミニコ会関係の殉教者はデルガード、ヘナーレス、サンペドロの3司教、スペイン人とトンキン人の9名の司祭、第三会員のホセ・カンと他の9名である。殉教した他の修道会の宣教師や信徒は数えきれないであろう。生き残った外国人司祭たちは国外に追放され、宣教活動は全面的に中断してしまった。

1857年7月、マカオに駐在していたスペイン領事が国王トゥ・ドゥクを訪問し、囚われていたサンホルホ司教の釈放と迫害の中止を求めたが成果はなく、かえって迫害がはげしくなったのである。このような受難に対して、トンキンにある教会は仕方なくフランスとスペイン両国の政府に保護を求めたので、1858年、両国政府は軍隊を派遣した。この結果、当然のことであるが、国王トゥ・ドゥクは外国軍隊を呼んだカトリック教会に対して今まで以上にきびしい迫害を加えたから、多くの宣教師やトンキン人信徒はこうした教会指導者のとった措置を嘆いたのである。こうしてドミニコ会はサンホルホ、ヘルモシッリァ、ペリオ・オチョア、アルマトの4司教と25名の司祭、そして第三会の3名の司祭会員と多くの信徒会員など多くの殉教者を出すことになった。

スペイン軍はトンキンにおける宗教事情が好転しないのをみて、すぐにマニラへ引き揚げたが、フランス軍は政治的な目標のために占領地に駐屯し、1863年、国王トゥ・ドゥクと平和条約を結んだ。これによりサイゴン港とツーラン港および3つの省を占領軍に渡し、キリスト教徒に信仰の自由を認めることになった。また国王もキリスト教会に対する偏見を捨て、その良さを認めるようになり、全面的に宗教の自由を与えた。

1864年から1900年までは、3世紀におよんだ迫害で荒廃した教会の再建時代であった。なによりも宣教師たちを悩ませた問題は新たな支配者となったフランス軍の軍政のやり方とカトリック信者であるフランス軍人たちの素行の悪さが多くのトンキン人につまずきを与え、信仰を捨てる者が出てきたことであった。

1904年と5年、聖ピオ十世教皇はフェデリチ、リシニアナ、カスタニェダ、ヘルモシリァ、ベルオ・オチョア、アルマトの6司教をはじめ、多くの殉教者を列福された。これらの殉教者が流した血はインドシナ半島に豊かな宣教の実りを約束するものであった。1912年、全国司教会議が開かれ、新しい宣教への歩みが始まった。ドミニコ会宣教地において、トンキン人教区司祭の養成のためにトルン・リンとナム・ディンに神学校や伝道士学校を設立、またトンキン人ドミニコ会士の養成のためにハイ・ドゥオンに小神学校とクゥアン・フゥオンに修練院を設置した。その他、病院や孤児院などの福祉施設も設けられ、愛徳の奉仕の事業も開始された。

1941年、太平洋戦争が勃発すると日本軍がベトナムからフランス軍を追い出し、全土を占領した。新しい支配者は宣教地のいくつかの建物を軍用として接収したり、嫌がらせをしたが、日本の敗戦によってすべては終わった。

第二次世界大戦、世界を支配した2大思想、自由主義と共産主義の激突により、1954年、ベトナムが南北2つに分割された。ベトナム人にとって大きな民族的悲劇を生んだ出来事であり、また、ドミニコ会宣教地が共産政権の北ベトナムに属することになり、至聖ロザリオ管区にとっては新たな苦難の道が始まったのである。そして北ベトナムを支持する共産中国と南ベトナムを支持するフランスやアメリカとの間にあのベトナム戦争が始まり、ドミニコ会宣教地の多くのカトリック信徒共同体は、宣教師の指導のもとに信仰の自由を求めて南ベトナムのサイゴン地区に避難した。宣教地区にいた教区神学生とドミニコ会神学生を香港にあるサン・アルベルト・マンノ修道院に避難させ、勉学を続けさせた。至聖ロザリオ管区はサイゴン地区における新たな宣教活動に努力し、またベトナム人ドミニコ会士の養成を大切にした。1967年3月18日、「ベトナム殉教者の元后」を保護者といただくベトナム人のみの管区が至聖ロザリオ管区の長女として誕生したのである。ところがサイゴン市の陥濯によって全国が北ベトナムの支配下に入り、ベトナム戦争は終わったが、生まれたばかりのベトナム管区は再び殉教への道を歩み始めている。国内に止まったドミニコ会員からきた匿名の手紙によれば、「私達にとって毎日が四旬節です」と書いてあった。国外に脱出した会員は現在カナダに亡命し、総長代理のもとに準管区を設立して、神の摂理が定める時もう一度祖国に帰る日を待っているのである。

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