| 1.わたしたち日本の教会の使命を考える -ロザリオの聖母管区創立記念にあたり- |
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| 2.フィリピンに管区を創立する計画 |
| 3.新管区創設の実現に向かって |
| 4.フィリピンにおける活動の始まり |
| 5.フィリピンにおける発展 |
| 6.中国大陸に福音の光を |
| 7.インドシナ半島における宣教 |
| 8.朝鮮半島への宣教の試み |
| 9.ローマ修道院 |
| 10.アメリカ大陸での活動 |
19世紀末、スペインを宗主国とする多くの海外植民地では独立を目指す革命が相次いで起こった。主聖ロザリオ管区の母であるメキシコ・サンチャゴ管区、グアテマラ、コロンビア、チリなど南米諸国にあったドミニコ会諸管区はすべて解散させられた。フィリピンでも、1896年8月29日、革命指導者ボニファシオが革命ののろしをあげた。宗主国スペインに利あらず、翌年の12月14日、ビィヤック条約によって、スペインはフィリピンにある修道会を解散させること、80万ペソを支払うこと、戦闘の被害に対して賠償金を支払うことになった。
その前年にはアメリカ合衆国がスペインに宣戦布告し、アメリカ軍がルソン島に侵略してきた。そして、1898年12月10日、パリ条約によりフィリピンの主権は合衆国に移るのである。翌年2月にはアメリカ軍とフィリピン独立義勇軍との闘いが始まるというまことに政情不安な時代となった。
こうした中で至聖ロザリオ管区は修道者を亡命させると共に、新たな宣教地をラテン・アメリカ大陸に求めようとした。1902年、ベネズエラ・カラカスのグレゴリオ・オブレゴン司教が小聖堂のついた家と宣教地区を管区に提供した。しかし、4年後、カラカスの宣教地はアンダルシア管区に、またウルバンバの宣教地はスペイン管区に移譲する。これはフィリピンの情勢が好転して、もはや南米に行く必要がなくなったからである。
1903年5月、合衆国ニューオルレアンス大司教プラシド・ルイス・チャペルは有能な秘書として長らく働いてきたトマス・ロレンソ神父に、その報酬として大司教区のサン・アントニオ小教区を至聖ロザリオ管区に提供する契約が結ばれた。ところが、よく分らない理由のためにその契約が実行されなかった。1911年、ローマ聖座の仲介で、サン・アントニオ小教区の代わりに田舎にあるマンドヴィル地区を管区が貰うことになった。しかし厄介な多くの問題を避けるためにそれも断り、古いベネディクト会修道院跡を入手し、そこを修練院、神学院を備えたロザリービル修道院とした。この修道院は管区にとって新しい宣教地であり、兵役の義務を避けてスペインからやって来る若い修道者たちを迎える家であり、スペイン領からアメリカ領となったフィリピンで宣教活動を続けるために必要な英語の習得ができる便利さがあった。
1915年8月、この修道院に新しいサン・アントニオ小教区が開かれ、大きな成果をあげたので、付近のいくつかの小教区も管区に委託されるほどであった。1938年には合衆国政府から教育事業をして欲しい要請を受けて、五つの小学校を経営することになった。それらの運営にあたるドミニコ会修道女第三会員たちの修道院も併設された。
また、ここの神学院は文化的な雰囲気から遠く離れた田舎にあったが、後にはフリプルグ、ローマ、マニラの諸大学で著名な神学者として知られるルンブレラ神父やマリン・ソラ神父が学んでいた所である。しかし、修練者の養成のためには不適当であり、なによりも管区本部のあるマニラから遠く離れているので、1935年、香港に創設されたサン・アルベルト・マンノ修道院に全面的に移転することになった。この地のすべての施設はドミニコ会サン・ホセ管区に移譲した。
第二次世界大戦後、中国に共産政権が樹立したことは世界に大きな影響を与えたが、至聖ロザリオ管区にとっても計り知れない悲しみをもたらした。中国とベトナムで働いていた管区の外国人宣教者は国外追放となり、何世紀にもわたって慈しみ育ててきた、そして多くの殉教者が流した血によって祝福された宣教地を去らねばならなかった。神がお望みになるならば、いつの日かこれらの宣教地に帰れることを念じながら、管区は新しい宣教地として南米諸国にあるドミニコ会諸管区の再建に協力することになった。現在数十名の者がベネズエラ、コロンビア、チリで活躍している。
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