Convento de San José
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日本における宣教

(6) 京泊(川内市)における宣教

1606(慶長11)年6月2日、家久の許可を得て、ドミ ニコ会士は甑島にあった教会を京泊に移築し、「ロザリ オの聖母」に捧げた。近くの江口城(現・東市来町江口) には関ケ原の戦い後、島津藩の保護のもとに移住してき た小西行長の娘イサベルの夫、デイエゴ小西美作が家臣 500人と住んでおり、彼らの間でメナ神父とスマラガ神 父は洗礼や告白の秘跡を授け、ミサを捧げる喜びを管区 に報告している。しかし家久がマニラから貿易船が来な いと知った時、迫害を始めるであろうと予想されたので1608(慶長13)年8月、モラーレス神父は薩摩以外の地に宣教地を開くため駿府に家康を訪問し、さらに江戸に秀忠を訪ね、長崎に教会を建てる許可を得て帰ってきた。 モラーレス神父が旅路にある間、前年に来日したサルバネスとオルファネル神父が交替で、撞摩にいる信徒の信仰生活を指導していた。この頃、家久は武土がキリシタンになることを厳禁していたが、やがて薩摩藩での迫害が激化し、薩摩における最初の殉教者が出たのである 平佐城主本郷三久に仕える武士、税所七右衛門がモラー レス神父から洗礼の準備を受けていた。彼は死を覚悟して、オルファネル神父からレオンの霊名で受洗した。その3カ月後、殿の命令に背いてキリシタンになった理由で死罪の宣告を受けた。彼はキリストの十字架にあやかるために町の十字路で熱心にロザリオの祈りを唱えたのち、斬首された。神父たちは彼の遺体を京泊の修道院中庭に埋葬した。これが薩摩における迫害の始まりとなり、翌年4月には江口城主ヤコボ小西忠次郎とキリシタンの家臣を長崎に追放、神父たちにも追放令が出され、誰であれ神父たちに近ずくことが禁止された。そこで管区長代理モラーレス神父はオルファネル神父を肥前に、サルバネス神父を京都へ派遣し、自らは教会と修道院の建物を解体して、その木材とすべての品物、それからレオン税所七右衛門の遺体を船で長崎へ運んだのである。

(7)肥前(佐賀県)における宣教

肥前の領主鍋島直茂は秀吉によって長崎代官になったことがあり、イエズス会のことをよく知っており、クラッセの「日本西教史」によれば、ヴァリニャーノ神父から受洗することを希望していた人であるが、領内では決してイエズス会の宣教を許可しなかった。ところが、ドミニコ会には領内に3つの教会と2つ修道院を持つことを許可するほどの絶大な信頼と援助を与えたのはなぜだろうか。
ドミニコ会が肥前に宣教するようになったのは偶然の出来事である。1606(慶長11)年8月27日、長崎の南にある深堀港に1隻のスペイン船が入港した。この船にはマニラ総督アクーニャの使節フランシスコ・モレノ・ド ノーソが船長として乗っており、家康に面会するために関東へ行く途中、嵐のために避難してきたのである。深堀は鍋島藩の支藩で、直茂の甥、七左衛門茂賢が支配していたが、直茂も茂賢もスペイン船の到来を歓迎した。
長崎に滞在していたメナ神父はマニラの至聖ロザリオ管 区の恩人であるドノーソ船長に会うため深堀に出かけた。ドノーソ船長は茂賢や家臣の前で鄭重にメナ神父を迎えたが、これが後に鍋島藩とドミニコ会の親しい交わりの始まりとなった。家康と面会する準備のためにドノーソ船長は鍋島本藩の藩主、鍋島勝茂のいる佐賀へ行った時、勝茂や父の直茂にメナ神父が茂賢から深堀に教会建設の許可を貰ったが、すでにイエズス会の教会があるので、できれば鍋島本藩の領内でドミニコ会士が居住できる許可をいただけないかと口添えをした。勝茂はすでにメナ神父のことを知っており、また茂賢から船長やスペイン人乗組員がどれほど神父を尊敬しているかを聞いていたから、即座に禅僧元佶の承諾があるならその望みをかなえると約束した。元佶は佐賀出身の学僧で、足利学校の第九代庠主、家康の側近として外国文書取扱いの責任者であった。元佶の承諾を得た茂賢は早速メナ神父に知らせ、また勝茂との面会を取り計らったのである。
メナ神父は不思議な人である。かつて家康から京都伏見に、茂賢からは深堀に、そして勝茂から佐賀領内に教会建設の許可を得ることができたのは彼の学識や人柄、自由に話せる日本語、日本の習俗に同化しようとする努力、日本人と接する慎ましい態度によるものであろう。また藩主勝茂の叔父、肥前鹿島城主の鍋島忠茂が夫人と共にドミニコ会士を訪問した時、彼らを称賛して「捨身のパードレ」と呼んでいたように、現世を軽んじ、厳しい苦業に身をゆだねながら、ただ自分と人々の魂の救いのみを念願して宣教する修道者たちの姿が鍋島本藩や支藩の藩主たちの心に信頼と愛情を植えつけたのである。 こうして1607(慶長12)年、現・肥前鹿島市浜町の若草神社がある場所に、「ロザリオの聖母教会」と「サント・ドミンゴ修道院」が、翌年5月には現・佐賀市柳町にある長徳寺の近所に「サン・パブロ教会」と修道院、把前鹿島市にもう1つの「サン・ピセンテ教会」が鹿島城大手門の前の広場に完成したのである。これらの教会や修道院は神父たちの清貧の精神に従って質素に造られていた。1612年まで肥前における宣教は順風満帆の勢いで発展していた。
この頃、最初の宣教団を派遣した管区長オルマーサ神父が浜町に来て、この様子を見、「神に感謝し、心に深い満足を感じた」と記録している。またドミニコ会士、ヌエバ・セゴピア大司教ディエゴ・デ・ソリアとスペイン国王フェリペ三世の命により、フィリピン総督シルヴァはドミニコ会士に対するこのような手厚い保護を感謝して鍋島勝茂に贈物と感謝状を送った。勝茂も答礼の贈物と書簡を出し、このような交流が繰り返されて鍋島藩とフィリピンとの間には特別な友好関係が深められていった。
またメナ神父は須古(現・佐賀県杵島郡白石町須古)の領主、須古正純から教会建設のために土地の提供を受けたが、ドトニコ会には人員にも資金にも余裕がないので、断念している。この地は聖フランシスコ・ザビエルから受洗し、イエズス会最初の日本人修道士で織田信長や豊臣秀吉とも親交のあったあの盲目のロレンソ修道士の出身地であり、後にイエズス会によって教会が建てられた。さらに1612(慶長12)年、メナ神父は武雄鍋島藩主、鍋島家信から柄崎(現・武雄市)にも土地の提供を受け、建築材料を集めていた頃、徳川幕府は岡本大八事件を契機としてキリシタン禁教令を発布した。そこで勝茂は心ならずも藩内からドミニコ会を追放することになった。勝茂の父、直茂はそのことをドミニコ会士に伝える時、深い悲しみを見せながら平和が回復したら再び喜び迎えるという約束をした。
出発までの2週間、神父たちは将来の厳しい迫害に備えて信徒の心を祈りと秘跡で準備した。また神父がいなくても信仰生活を続けることができるように、信心深い人々を長としたいくつかの男女別の組を作り、組ごとに集会を開き、祈り、説教の代わりとなる信心書の朗読をすること、断食や苦業の規則を守り愛の業に励むことを定めた。最後に、どんな方法でもよいが、棄教するより神の栄光のために死ぬべきことを教えた。
こうして、7年間にわたる喜びに満ちた把前宣教に終止符がうたれ、浜町から船で長崎へ向かう神父たちを信徒は泣きながら浜辺に出て見送った。「人々の側からみれば父と別れ、狼のなかに残される悲しみ、私たちには汗で育てた愛する子供たちと別れる悲しみであった。見送る人々の中には多くの異教徒たちや僧侶たちもいて、私たちに愛情を示してくれたことは特別な神の恵みである」とオルファネル神父は「日本キリシタン教会史」の中に書き残している。追放された神父たちはメナ、ルエダ、オルファネルであった。時に1613(慶長18)年10月8日のことであった。

(8)京都における宣教

ドミニコ会が薩摩から追放された時、サルバネス神父は京都へ行き、1610(慶長15)年1月25日、現・下京区河原町松原通りの鴨川沿いと推定されている場所に「ロザリオの聖母教会」を建て、同年7月6日、大阪(場所は不明)に「聖ドミニコ教会」を建てて最初のミサを捧げている。さらに伏見に教会を作ろうとしたが、資金不足と迫害が始まり実現できなかったので、信徒の家を集会所として宣教を開始した。
従来、日本で宣教した4修道会のうちでドミニコ会だけが伊達政宗と交渉を持たなかったとされて来たが、オルファネル神父の「日本キリシタン教会史」の記録によれば、サルバネス神父は京都から駿府に家康を訪ね、さらに江戸で秀忠に面会するが、そこで伊達政宗と会っている。政宗は彼に好意を示し、ドミニコ会が希望するなら、自分の領内で教会のために土地を与えると約束している。
1612(慶長17)年、岡本大八事件の関係者、有馬晴信は甲斐に流され斬首、大八は駿府で4月21日に火刑に処せられたが、この日家康はキリシタン禁教令を発し、京都所司代、板倉勝重に命じて京都周辺の教会を破壊した。京都を追放されたサルバネス神父とスマラガ神父は長崎へ向かうが、「大阪の教会は大阪冬の陣で焼失し、京都の教会はその所の町年寄りが教会ではないと証文を書いて守ってくれたので、今でも存在している」と書き残している。

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