Convento de San José
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日本における宣教

(31)中予地区における発展

県都松山には、後述するが、松山女子商業学校と愛光学園の2つの教育事業のほかに松山精神病院という社会事業を通して宣教活動が盛んであったので、松山教会は主任司祭ヴィセンテ神父の指導のもとに信徒の数が増え、1954(昭和29)年末には600名を越えている。信徒会(壮年会、婦人会、青年会、日曜学校)のほかに、多くのカトリック・アクションが活発に活動した。聖ドミニコ会第三会、ロザリオ信心会、レジオ・マリエ会、カトリック看護協会、カトリック学生連盟(大学部、高校部)、ヴィンセンチオ・ア・パウロ会、カトリック教師会やカトリック医師会などである。
信徒数の増加にともない、松山市の周辺に新たな小教区が創設されていった。隣の伊予市には松山から出張伝道が行われて、40名の信徒がいた。1951(同26)年、ドミンゴ・レデスマ神父が借家を求め、郡中教会を創設した。数年後に教会と司祭館、そして「天使幼稚園」が開設された。教会の保護者は「ファチマの聖母」である。
1956(同31)年4月、道後に「聖母幼稚園」が開設され、翌年、「聖トマス・アキナス」を保護者とする教会と司祭館が完成し、松山三番町教会から91名の信徒が新教会に移籍した。初代主任司祭としてオレンシオ・ペレス神父が着任した。
松山市北西部の三津浜に「海の星幼稚園」が開設され、その建物を巡回教会として利用し、近辺に住む信徒が日曜日のミサに参加できるようになった。これは1964(同39)年のことで、マルシアノ神父が責任者となった。
隣接する北条市に聖ドミニコの宣教修道女会が聖カタリナ女子短期大学、特別養護老人ホーム「聖マルチンの家」を創設したので、これらの施設で働く修道女、学生、職員と近辺の信徒を司牧するために北条教会が創設され、初代主任司祭としてヨハネ岡本哲男神父が着任した。それは1968(同43)年9月のことであった。

(32)南予地区における発展

1951(昭和26)年5月17日、宇和島教会では、「愛和幼稚園創立二十五周年記念式典」が行われ、それを機に園舎の増築がなされた。またイシドロ神父が幼稚園長職に専念し、教会業務は武田神父が責任を取るようになり、司祭館も完成して宣教活動が活発化した。3年後、イシドロ神父がスペインに帰国し、また愛光学園に転勤した武田神父の後任者モデスト神父は「愛和幼稚園」を拡充し、園名も「愛和聖母幼稚園」と変更した。また1966(同41)年、高知県境に近い城辺町にも「常盤幼稚園」を開園したが、経営の困難から10年後に城辺町に移譲してしまった。
八幡浜では1935(昭和10)年、借家住まいの教会が始まった。1946(同21)年、現在の昭和通りにかなり広い土地を手に入れ、4年後に教会と司祭館が完成、さらに 「聖母幼稚園」が開園された。何人かの神父たちが交替しながらであったが、宣教の実りが増えて3年後には信徒の数も84名になっている。

(33)東予地区における発展

今治教会ではトマス神父が色々なキリスト教を説明するパンフレットを配布したり、教会に裁縫教室を開き、そこで学ぶ娘たちに教理を教えていた。1952(昭和27)年に多くの青年男女がサンタマリア神父の指導する聖歌隊に参加した。この聖歌隊の1人が後に世界的なソプラノ歌手となった今井久仁恵女史である。また隣接地を買収して「若葉幼稚園」の園舎を拡充したり、教会墓地が造成されたのもこの頃であった。
新居浜教会でも信徒の増加が著しく、大きな教会堂が完成した。この機に聖ドミニコ宣教修道女会が教会内で経営してきた「聖マリア幼稚園」が別の場所に移転したので、メリノ神父は旧園舎を改造して、新たに教会経営の「愛光幼稚園」を開いた。
西条教会創立の由来は新居浜にいたヴィセンテ神父がこの地に宣教を試み、何人かの受洗者と洗礼志願者を得たので有望な宣教地であると判断したことにある。1949 (昭和24)年、日本家屋を購入し、仮聖堂と住まいにしてドミンゴ神父が宣教を始めた。4年後には「西条聖マリア幼稚園」を設立し、また数年後に「聖ヴィセンテ・フェレル」を保護者とする教会も建てられた。
以上見てきたように、至聖ロザリオ管区は担当した愛媛県下全域で宣教活動を発展させて来たが、東予地区にある三島、川之江両市は製紙業が盛んで人口も多く、以前から宣教を展開する計画があったが、なかなか実現でさずにいた。1976(昭和51)年にブルゴス宣教会がこの地区の宣教を始めることになったのである。

(34)宣教地区外の活動

1946(昭和21)年、アントニオ神父とマルシアノ神父は大阪大神学校の教授として招かれ、2年間働いた。1954 (同29)年、聖ドミニコ宣教修道女会は修練院を松山から伊丹市に移転したので、修道院付きの司祭としてシリロ神父が任命された。 1955(同30)年、管区は大阪司教から15年の契約で三国教会の宣教を引き受けドミンゴ神父が赴任したが、事情があって数年で終わった。神父は伊丹の修練院に移り、修道女の指導をしながら大阪外国語大学でスペイン語の講師として働くようになった この頃、来日したバリエス神父は名古屋にある聖マリアの無原罪修道会で修道院付きの司祭として働くかたわら、南山大学で日本語や文化を研究していた。 1959(同34)年2月、東京に修道院を開くことになった。東京・世田谷に洋風の家を求め、東京大司教とドミニコ会総長の許可のもとに「聖ヨゼフ修道院」が開かれて、ルシアノ、アドリアン、アントニオの諸神父が在住した。数年後、東京の大学関係者や大学生の間で宣教するために学生寮を開設する案が承認され、東京・大森に入手した土地に聖ヨゼフ修道院を移転新築し、学生寮を併設した。ここは来日する若い神父たちが日本の最尖端をいく文化や思想に触れながら日本語を勉強し、愛光学園で教職につくのに必要な教員免許を取得できるように大学で勉強し、日本宣教への高度な準備をさせる場として計画された。併設されている「聖ドミニコ学生寮」は90名の大学生を寄宿させうるもので、初代寮長にメリノ神父が就任した。

(35)教育事業

既述したことであるが、1925(大正14)年、管区は松山市に女子教育のために「美善女学校」を設立し、それを管区の聖ドミニコ修道女第三会に委託した。よい設備であったにもかかわらず入学する生徒が少なく、女子商業学校に転換した。当時、女性が実業面に進出し始めており、算盤や簿記の習得が重要視されてきたのである。この方針は成功して、1931(昭和6)年には生徒数が500名を越えるようになった。
1934(同9)年、管区の聖ドミニコ修道女第三会が「聖ドミニコの宣教修道女会」として独立した修道会になったので、管区はそれまで経営を委託していた学校を新修道会に移譲した。それ以来、順調に発展し、今は「聖カタリナ学園」として短期大学、3つの高校、6つの幼稚園を持つ一大学園に発展している。

神父たちは宣教の使命を果たす過程で、青少年教育の在り方が大きな影響を持つことを知るがゆえに、男子の中等教育機関の設置を考えてきた。管区長代理ヴィセンテ神父は日本地区の望みを管区長シルベストロ・サンチョ神父に話し、その承諾を得た。神父は松山商科大学長で熱心なカトリック信徒であるイシドロ田中忠夫氏の協力を得て、計画を具体化していった。1953(昭和28)年4月、男子中・高校「愛光学園」が前記の田中氏を校長に迎えて松山市宮西町にある城北女学校の旧校舎に開校した。校名が示すように、本校で学ぶ生徒が神から賜ったすぐれた知性を研磨して世の光となると共に、2千年におよぶキリスト教の愛の精神を身につけて人に尽くす人物(愛と光の使徒たること)に育成することを基本理念としている。こうして古い木造校舎に第1期生として120名の中学1年生を迎えたが、現在は中・高併せて1300人が学ぶ学園に発展し、学舎も創立二十周年を記念して、1973(向48)年、宮西町から衣山の景勝の地にある2万坪の校地に新築移転した。全国的によい評判を得て、地元松山市のみでなく県内外の遠隔地から多くの入学者がやってきたので生徒寮が必要になり、地元の信徒である寺尾夫妻が経営する「愛光寮」と管区が経営する「聖トマス寮」が発足した。学園における神父たちの活動は学園理事会の理事として学園全体の運営を計画するほかに、中・高6年間に1週1時間の必須科目である社会倫理の授業を担当してキリスト教思想や倫理観念を教えること、聖トマス寮に起居する生徒の生活指導である。生徒寮の仕事は日常生活の場における司祭と生徒の交わりであるから、与える影響は大きく大切な宣教の場である。現在の聖トマス寮には500名を越える生徒が寄宿している。さらに120名を収容する学園直営の「聖ドミニコ寮」があり、新寮が建設中である。学園で最初に働いた神父たちは理事長ヴィセンテ神父ほか武田義雄神父、マリン神父とルイス神父で、聖トマス寮の初代寮長はルイス神父である。

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