1570(元亀1)年にポルトガル船が入港して以来、長崎は貿易港として盛んになり、多くの商人やキリシタンが移住してきた。10年後、領主大村純忠は長崎六町と茂木をイエズス会の知行所とした。その中心は「岬の教会Jと呼ばれた所で、そこにはコレジヨ、活字印刷所、イエズス会日本管区長館、日本司教のいる「ご上天のサンタ
・マリア教会」、日本司教区大神学校、セミナリオなどが置かれた。内町と呼ばれる6町と大村領長崎に広がった
外町には16の教会があり、まさに「日本における小ロー
マ」であった。
現・長崎市勝山町にある勝山小学校の校門前に「サン
ト・ドミンゴ教会跡」と刻まれた石碑があるが、この場所こそ、1609年、薩摩を追放されて長崎に来たモラーレス神父が京泊から運んできた木材で建てた教会と修道院跡である。彼は家康から教会建設の許可書を貰っていたので、直ぐに建設できた。「モラーレス書簡集」には「よい土地を手にいれ、直ちに薩摩から持ってきた教会を組み立てました。日本では度々あることで、家は組み立て式になっていますから、大きいものであっても取り壊して運び、どこにでも再び組み立てるのがとても簡単です。短期間に1つの修道院ができました。小さいが便利で、事務室、寝室と中庭があり、そこで大修道院と同じ祈りの行列をいたします」とある。その中庭に京泊から運んできた殉教者レオン税所七右衛門の遺体を安置してあった。この教会を訪れた長崎代官、村山等安と家族はこれほど整った教会に是非とも聖体を安置してほしいと願い出て立派な聖体顕示器などを寄附したので、外町では唯一の聖体を安置できる教会となり、多くのキリシタンの信仰を深めることになった。
各地から追放されてきたり、新たに来日した者を加えて長崎の修道院には11名のドミニコ会士が集まった。フォルトー管区長代理、モラーレス修道院長、オルマサ、メナ、スマラガ、ルエダ、サルバネス、オルファネル、ポーラス、バルデラマ、ナバレテの諸神父である。1613
(慶長18)年11月の始め、他の修道会と共にドミニコ会も神父を持たない地方のキリシタンたちを慰め励ますために神父を密かに派遣することになり、フォルトー管区長代理は2人の神父を派遣した。ルエダ神父は有馬、天草、筑後、筑前、豊後の諸地方で、オルファネル神父は肥前浜町に潜入し、20日間信徒に秘跡を授けてから長崎に帰り、さらに有馬、肥後、豊後の諸地方を巡っていた。メナ神父も浜町、佐賀に潜入し信徒を励まして長崎に帰った直後、翌年1月末、肥前藩における迫害が始まり、主だった信徒12名が長崎に追放されてドミニコ会士の所にやってきた。しかし、深堀領をのぞいて鍋島本藩と支藩では厳しい拷問とか処刑はなかった。後に1人、パブロ・タロスケが斬首されたのみであった。
1614年1月31日(慶長18年12月22日)、家康は全国的キリシタン禁教令と宣教師や主だったキリシタンの国外追放令を出した。これが260年間におよぶ世界に比類のない厳しい検索、残酷な拷問と処刑で臨んだ信仰弾圧の始まりとなった。神父が追放されて、指導者がいなくなった諸所では、厳しい拷問と処刑に多くの者が転宗した。特に女性にたいしては悪魔的と言える方法が取られた。それは女性を裸にして市中を引き回し、娼家に連行するというものであった。
3月初旬、京都のキリシタンを励ますためにサルバネス神父は修道服を脱ぎ、スペインの俗服を着て旅行をしたが、途中でも京都でも多くの棄教者を立ち帰らせ励ましていた。長崎では「悪魔」と呼ばれる長崎奉行、長谷川左兵衛が自ら長崎に来て全キリシタンを転宗させるという噂があり、大混乱となった。そこで長崎代官、村山等安の息子アンドレス徳安が指導者となり、迫害に対して信仰を堅固にするために人々を結束して組を作る計画を立て、ドミニコ会とフランシスコ会の神父たちに相談した。イエズス会はそのような計画は幕府に対する謀反であると反対したが、多くの信徒は年配者、若者、女性や年少者を問わず参加した。それぞれの組に固有の規約が作られたが、第1に信仰を捨てないことで一致してい
た。それ以外に組ごとの独特な規約、たとえば、死者の遺体を埋葬する、大斎、鞭うち、祈り、度々秘跡を受けることなどを定めたものがあった。会員は規約書に署名をし、なかには血判する者もあったほどである。この計画の実現にはスマラガ神父の熱烈な説教が大きな影響を与えた。
諸修道会では信徒を勇気ずけるために行列をした。5月9日、聖霊降臨祭の翌日、ドミニコ会の主催で最初の行列が行われた。侍者を従えた十字架を先頭に白衣を着た同宿が連祷を歌う少年隊と歩き、次に裸足で、白衣に黒いベールを被る頭に荊の冠を置いた2000人以上の女性たちが続く。彼女たちは手に十字架像や聖人の像を持っていた。その後に、鞭うちで血に染まった8000人以上の改心者が続き、彼等の間に1人の白衣を着た男が燃える蝋燭を手に持っていた。それからドミニコ会士たちが祈りながら、黒いベールで覆われた大きな十字架上のキリスト像の前を進んでいた。同じような行列が他の修道会の主催でも行われたのであった。
6月23日、長谷川左兵衛が江戸から長崎にやってきた。諸修道会の上長が挨拶に行くと、彼は好意を示しながら歓迎した。しかし上長たちがそれぞれの修道院に帰ると、彼は使者を通じて、すべての修道司祭と修道士、日本人教区司祭は秋までに自分たちで船を準備し、マカオとマニラに出国することを命令したのである。こうして長崎に集められた追放者たちは約500名で、5隻の船で、マカオとマニラへ向かつて出帆した。11月7日、マカオに向かった3隻には62名のイエズス会員と同宿たち、3人の修道女たちがいた。翌日、マニラへ向かった2隻には高山右近と家族、内藤徳庵と家族、内藤ジュリアと15名の修道女たち、イエズス会、フランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会、日本人教区可祭を含む350名以上の人々が乗り込んでいた。
マニラに向かう船に乗船したドミニコ会士は4名で、モラーレス、オルフアネル、フォルトー、バルデラマの諸神父であったが、モラーレスとオルファネル両神父は船が沖に出て監視の船がいなくなると、沖で待っていたキリシタンの船に乗り移り長崎に潜入した。サルバネス神父は京都におり、他の4名の神父たちは追放を逃れるために身を隠していたので、日本に残ったのは7名であった。
11月3日、長谷川左兵衛は長崎の諸教会を破壊し始め、サント・ドミンゴ教会は12日に壊された。その後、彼は九州諸藩の兵1万を率いて有馬領内の迫害を始め、特に有家と口の津では残酷な拷問と処刑で多くの殉教者がでた。やがて大阪冬の陣が始まり迫害が一時和らいだ時、神父たちは信徒の信仰を固めるために懸命に働いた。スマラガ神父はサルバネス神父と交替するために京都に行き、伏見に小さな家を手に入れた。管区長代理となったナバレテ神父は肥前、筑後、筑前、豊前、豊後、日向を巡歴し、ルエダ神父は薩摩にまで足をのばして、有馬領だけでも1200人以上の棄教者を立ち返らせた。
1616(元和2)年7月、家康が死ぬと、秀忠は江戸と京都で厳しい迫害を始め、また全国の諸大名にキリシタン詮議をきびしく命じたので、スマラガ神父は長崎に帰らねばならなくなった。さらに宣教師が長崎に潜伏していることを知った秀忠はバルトロメ大村純頼を呼び、ただちに帰藩して領内にいる宣教師を1人残らず処刑することを命じた。こうしてキリシタンの故郷ともいうべき大村に迫害の嵐が始まるのである。
翌年の4月、フランシスコ会のペドロ神父が、続いてイエズス会のマシャド神父が捕縛されて郡の牢に入れられ、5月22日、2人は幕府の命により斬首された。それから
3日後、ドミニコ会のナバレテ神父とアウグスチノ会のエルナンド神父は殉教を覚悟で公然と説教を始めた。それは2人の神父が書き残しているように、「危機に瀕した日本教会に身をもって信仰の模範を示す必要があり、また神父たちは背教よりも殉教をと教えるが、自分たちは殉教を逃げているというキリシタンの間に広がっている誤解をさけるため」であった。その日は3000人が説教を聞き、多くの棄教者が立ち返った。翌日は奉行リノ朝長次郎兵衛を始め300人の者を改心させた。28日の日曜日に大勢の前でミサを捧げ、長与で4日滞在する間、藩主純頼に信仰の道に戻るよう手紙を書いた。やがて捕吏が近ずくのを知ると、2人は修道服に身を包み、縄目を受けた。役人たちは人々の感動を招かないように、2人と伝道士レオ田中を密かに処刑するために時津の沖の鷹島で斬首した。そして郡から運んできた2人の宣教師の遺体の棺を開き、ここで殉教した2人の神父の遺体と合せた。1つの棺にはイエズス会のマシャド神父とドミニコ会のナバレテ神父の遺体を、もう1つの棺にはフランシスコ会のペドロ神父とアウグスチノ会のエルナンド神父の遺体を納め、石の重しをつけて海に沈めた。
4人の殉教者について、1617年10月14日、モラーレス管区長代理が長崎からマカオ司教区に送った報告書の中で次のように書いている。「役人たちがこのような入れ方をしたのは別に理由のない偶然によるものですが、神の方から考えてみますと、非常に重要な目的のために行われたものと思われます。すなわち日本で働いている4つの修道会を仲良くさせるためです。聖フランシスコ会はすでにイエズス会と仲良くなっていました。何故ならば両修道会の修道士が1人づつ一緒に殺され同じ墓に葬られていました。聖ドミニコ会と聖アウグスチノ会もすでに仲良くしていました。それは今度の棺の入れ方によって、神はイエズス会と聖ドミニコ会を仲良くさせ、聖フランシスコ会と聖アウグスチノ会を仲良くさせたもうたのです。聖なる殉教者の遺体が同じ棺で抱き合った如く、修道会も同じく1つの愛と神の結びによって一致するように教えています。神は今度4つの修道会を仲良くさせるためにこれを行いたもうのです。それは同じ迫害、同じ国において、同じ理由すなわち福音の宣教師であるが故に、各修道会から1人づつ殉教者を出し、4人の遺体も海の同じ場所に投げ入れられるようにしたもうのです」。
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