Convento de San José
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日本における宣教

(27)三代目教区長モデスト師の時代

1935(昭和10)年7月、ローマ教皇庁はモデスト・ペレス神父を四国教区長に任命した。新教区長は同年8月4日に着座すると、四国宣教の在り方を全面的に見直して、限られた人員と経費でより有効な成果が出るような方針を決定した。
モデスト教区長の最初の仕事は新居浜に教会を設立することであった。1930(昭和5)年頃、住友鉱山で働く熱心なカトリックのドイツ人技師オット氏がいて、遠い今治教会まで毎日曜日のミサに出掛けていた。彼は新居浜に教会設立を願って、敷島通りに300坪の土地を提供した。そこで教区長は2階建ての建物を造り、1階は聖堂に、2階は司祭の住居とした。ついで幼稚園を開き、これを聖心愛子修道女会に委託した。1937(同12)年9月のことであった。3年後、この幼稚園の経営は聖ドミニコ宣教修道女会に移されることになった。
また同じ年、老朽化した宇和島教会堂もより大きく美しいものに建て変えると共に、宇和島から出張伝道が行われていた八幡浜に司祭常駐の教会を創立し、マルシア ノ・ディアス神父が着任した。この地方では既にパリー外国宣教会が八幡浜と大洲に宣教し、特に大洲には信徒グループを指導する伝道士が置かれたこともあった。1933(昭和8)年頃であるが、イシドロ・アダネス神父が八幡浜に1件の家を借り、そこで伊崎貞子伝道婦が日曜学校を開いていた所である。
以上の様に教会施設を拡充すると共に、あまり効果がないまま四国各地に散在する諸施設は撤去あるいは閉鎖した。高知県清水の伝道所、徳島県板野の伝道所は閉鎖し、徳島県池田教会の司祭館と幼稚園の建物は撤去して高知へ運び、巡回協会に格下げした。
かつて前任者アルバレス神父が徳島市で計画していた社会福祉事業を実現するために、モデスト教区長は高知市北部の新本町に広大な土地を求め、そこに各地から撤去して運んできた建築木材を利用して2階建ての養護施設「聖園天使園」を建設し、その運営を聖心愛子会(現在の聖心の布教姉妹会)に委託した。そこには最初の邦人教区司祭フランシスコ田中英吉神父(後の高松司教)が着任し、私財を投じて「聖マルガリータ・マリア」に捧げた聖堂と司祭館、それに学生寮を建築して精力的に宣教を開始したのである。このようにして高知市に第2の宣教の拠点ができたのは1937(昭和12)年のことである。至聖ロザリオ管区もまた社会福祉事業を徳島市に計画し、マカリオ・ルイス管区長代理はアルバレス教区長が購入していた土地を利用して、聖ドミニコの宣教修道女会を招き養護施設を作るつもりであったが、太平洋戦争勃発前の危機的情勢のために実現には至らなかった。
モデスト教区長がした事業の中で、もっとも重要なことは教区司祭の養成であった。1938(昭和13)年、長崎出身の小神学生数名を四国教区所属として、長崎公教神学校に送った。彼らが高松司教区で現在働いている邦人司祭たちである。
最後にモデスト師がしたことで記録に残したいのは、松山市の近郊にある衣山に「浦上四番崩れ」で当地に流配されてきた86名のキリシタンのうち、獄中で亡くなった8名の信仰を顕彰する「長崎キリシタン流謫の碑」を建立したことである。かつて当地に流配されて来て後年司祭になった山口宅助神父がこの地を訪問して8名の墓を発見、記念碑建立の件を委嘱して帰った。そこで師は松山の信徒田中忠夫氏の協力を得て、8名の墓の隣接地を購入して記念碑を建立した。1938(昭和13)年3月に記念碑の除幕式が行われた。現在その記念碑を取り囲むようにしてカトリック墓地が造成されている。

 

(28)太平洋戦争の時代

戦争を感じさせる緊迫した社会情勢の中で、外国人が日本教会の指導者であることが不適当と考えられ、すべての教区に邦人教区長が就任することになった。そこで1940(昭和15)年10月、モデスト神父は四国教区長の職を辞任し、大阪教区長であるパウロ田口芳五郎師が四国教区長を兼任することになった。翌年2月に田口教区長は着任し、田中英吉神父を四国教区総代理に任命した。同年5月の教区長布告で、これから日本教会は東京大司教の指示で行動すること、また司祭が街頭に出る時は黒の長い司祭服を用いず背広服の着用が命じられた。
1941(昭和16)年12月8日、戦争が始まると同時に、宣教活動はほとんど停止した。翌年1月には男子伝道士の活動停止の命令、5月にヴァチカン公使からの通達で神父が信徒の家庭を訪問することを控えるようになった。スペインは日本との交戦国ではないので、ドミニコ会神父達は抑留されなかったけれども、無断外出は禁じられ、常に特高警察の監視と尾行があった。徳島にいたマカリオ・ルイス神父は警察の勧めで高松に移動し、教区総代理の田中神父が高知と徳島の2つの教会を管理することになった。高知の赤岡教会は軍用に接収された。
1945(同20)年の7月から8月にかけて、四国の諸都市は次々とアメリカ空軍の空襲を受けた。まず宇和島、ついで高松、徳島、高知それから今治の諸都市が爆撃されて、教会の諸施設も焼失してしまった。焼け残ったのは八橋浜、新居浜、高知新本町、赤岡の四教会と今治の「若葉幼稚園」だけであった。また終戦前の20日間ほどではあったが、マカリオ、サンタマリア両神父が香川県琴平の近くの滝宮警察署に抑留され、松山地区の外人神父や修道女は今治に強制移住させられた。

(29)戦後の復興期

1945(昭和20)年8月15日、終戦によって信仰と旅行の自由を取戻した神父たちは新居浜に集り、管区長代理ヴィセンテ神父の指示で各地の教会復興計画に取り掛かった。まず教区長座である徳島教会は教区総代理の田中神父が再建した(1947年)。松山ではモデスト神父が焼跡にブリキや板で造った畳1枚ほどの広さの小屋に住み込んで(今でも松山の信徒が犬小屋という)、最初にドミニコ会修道女のために仮のものではあるが修道院と学校の校舎を再建(1946年7月)。高松ではサンタマリア神父がまず小さな家を、それから本格的な教会堂と幼稚園を建設した(1947年11月)。続いてイシドロ神父が宇和島教会を(1948年12月)、トマス神父が今治教会を(1949年5月)、そしてモデスト神父が松山教会を再建した(1949年11月)。高知教会の焼跡には1948(昭和23)年より来日して宣教を始めたオブレート会によって現在の中島町教会が新築された(1959年)。
諸施設の復興と共に、戦後の虚脱状態から立ち上がり始め、精神的な糧としてキリスト教信仰を求める人々が多くなった。特に高松地区でサンタマリア神父がめざましい宣教をした。アメリカの友人から寄贈された莫大な食糧、衣類を高松市内の貧困者に配布して救済する「愛のジープ運動」を始め、多くの青年男女が神父に協力した。彼らの中から修道生活へ召された者も何人か出ている。また大島国立療養所のハンセン氏病者を慰問し、多くの人々を洗礼に導いた。さらに昔キリシタン大名小西行長の所領であった小豆島に宣教を始め、「幼きイエズ スの聖テレジア」教会を設立した。
また1948(同23)年頃、アメリカ進駐軍の友人の仲介を得て坂出市長鎌田正光氏が所有する笠山の土地1000坪の寄附を受けて、聖マルチン病院と坂出教会を建設した。聖マルチン病院は聖ドミニコの宣教修道女会に委託され、医者である3人の修道女や看護婦である修道女たちが働いた。マカリオ・ルイス神父が坂出教会に着任し、修道女たちの協力でこの地方に大きな宣教の実りを得ることができた。
また松山地区ではドミニコ会修道女の経営する松山女子商業高校で学ぶ生徒たちが多く洗礼を受けた。多い年は100名を越す受洗者が出て、教勢が大いに発展し始めた。

(30)四国宣教組織の再編成

1949(昭和24)年、四国全体の宣教地区が分割され、新たな担当者が決まった。香川県東部は邦人司祭団、香川県西部はブルゴス宣教会、高知県と徳島県はオブレート修道会、そして愛媛県がドミニコ会至聖ロザリオ管区の担当する地区となった。宣教業務に関する教区との契約は有期の個別的なものとして更新された。各宣教会、修道会の地区長が各宣教地区の上長となり、宣教に要する経費はローマ教皇庁布教聖省から直接にそれぞれの宣教地区長に渡され、宣教師の生活費はそれぞれの宣教会 ・修道会が維持する新しいやり方になった。そこで至聖ロザリオ管区は高知にあった管区日本地区本部を松山三番町教会に移し、愛媛県以外の地で働く管区の宣教師はそれぞれの教会業務の引き継ぎが終わりしだい愛媛地区に集まるよう定められた。新たに来日したステファノ武 田義雄神父、カルロス・マルチネス、ホセ・デルガド、サトルニーノ・ゴンザレス、サルバドル・ルイスの諸神父が加わり、折しも急増する洗礼志願者に応じることが出来て、教勢は飛躍的に発展していった。こうした時に1954(昭和29)年8月4日、聖ドミニコの祝日に「至聖ロザリオ管区来日五十周年記念祭」が松山で盛大に挙行された。

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